加藤 俊幸
竹石松次氏から著書『誇りたかき新潟の52人』(2015)に取り上げた金子孝信との縁を教えられた。彼は長嶺町の由緒ある蒲原神社宮司の三男として生まれ、内科の金子康隆は兄、眼科の深井イサホは姉。金子隆弘先生は甥にあたる。18歳で上京して神職の資格を得るも、川端画学校から東京藝術大学日本画科へ入学。卒業作品「季節の客」でモダンな銀座の雰囲気を描いて同校買い上げとなり、首席で卒業した。その半年後には現役兵で入隊となり、2年後に中国で戦死。26歳の生涯であった。作品は潟東樋口記念美術館と蒲原神社、無言館などに保管されている。さらに刊行された絵日記『ある戦没画家の青春』(1994)には、彼の青春と生きた時代が描かれており、より身近かに感じる。もし生きて戻れたら、戦後の銀座をどう描いただろうか?
横山 操は、吉田町の某医院と関わるものとして生まれ、金子の5歳下である。14歳で上京し図案社で働きながら、18歳で彼も川端画学校に入学して日本画に転向。20歳には入隊となり、25歳終戦後もシベリア炭鉱に抑留され、30歳でようやく帰国。それから10年の遅れを取り戻すように20年余で1200点も制作し、荒々しく大胆な構図で戦後日本画の風雲児と呼ばれた。40歳過ぎには郷愁の溢れる越路十景や彌彦山も描きながら、53歳で病死。2020年から生誕100年記念展が開催されている。
そんな2人の展覧会を見てまわりながら考えた。ともに医者が身近にいる環境で育ち、上京して川端画学校で日本画を始めたが、若くして従軍し、製作ができなくなった。その後の生死は分かれたが、金子の遺作展と横山の第2回個展はともに小林百貨店(その後の新潟三越)で開催された。
(令和3年4月号)