伊藤 久彰
新聞のお悔やみ欄に、大学同級の新保信夫君の名前があった。私の年になると同年代の人がポツリポツリと消えて行く。しかし、彼は虚無僧型尺八の免許皆伝で、顔色も良くいつも丈夫そうに見えた。ただ彼は数年前に美人の奥様に先立たれて、娘さんと一緒に暮らしていると聞いていた。私が彼に初めて会ったのは、昭和19年5月のことであった。その時私は内野小学校(当時は国民学校)から、長岡の中島小学校に転校し、都会の雰囲気におびえていた時であった。当時の中島小学校は1学年が、男子組、女子組、男女組の3クラスで、彼は男子組の級長であったらしい。私は男女組に入れられて、彼とはクラスが違ったので話をする機会は無かった。ただ、体操の授業だけは、男女組は男子と女子に分けられて、男子は男子組の新保君の指揮下に入った。その後私は転校を繰り返し新保君と会うことも無くなった。それが大学に入って新保君と同級生になった。そして医学部2年生の夏休みに十和田湖畔に全国の医学生のサマーキャンプがあり、私も新保君も参加した。その帰りに私と新保君を含めて同級生5人で、裏磐梯に降り、日本生命のセールスレディと交友を持ったことがあった。その時に初めて新保君があの中島小学校男子組の級長であったと知った。医学部では二人とも民謡部に属していて、新潟公会堂で発表会をしたり、休日には民謡部の仲間でハイキングに出かけたりした。それでも私の影は薄いらしく、大学卒業後に彼と民謡部の話をしても、彼は私のことを覚えていないと言った。大学卒業後は私と新保君を含めて総勢8人で長岡日赤病院でインターンをした。彼の先立たれた美人の奥様は長岡日赤病院の看護婦さんであった。今、長岡日赤病院でインターンを過ごした8人中5人が亡くなっている。散る桜、残る桜も散る桜。
(令和3年4月号)