浅井 忍
チョコレート・アイスバーを食べながら本を読んでいたところ、母指にチョコレートがついてしまった。母指が本に触れないようにしながら、キリのいいところで2メートルほど離れたところにあるティシューで拭こうと思った。書いてあるフレーズがいけなかった。「なべて世に事もなく、これからも平穏が続きそうなときに」という一文に、有名なフレーズを引用していると思った。そのとき、母指のチョコレートのことを忘れて、母指の腹が本に触れてしまった。ティシューでシミを拭うとチョコレートの焦げ茶色はなくなったものの、油ジミが残った。
さて、「なべて世に事もなく」は、誰のフレーズだろう?ここで登場するのが、iPadだ。右示指でキーボードを打ち、回答にたどり着いた。それは、ロバート・ブラウニングの詩を堀口大学が訳した「時は春、日は朝(あした)、朝は七時(ななとき)、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。」だった。高校の現代国語に出てきた。この詩を読んだ時に情景が浮かんだのだ。雲雀が鳴き枝を這う蝸牛の向こうに、朝の青空が見えた。
本に戻りシミを見ると、さっきよりもひと回り広がったような気がした。ストーリーは、早朝に起きた夫がキッチンに行くと、前夜に妻が昼食用に調理しておいたデビルエッグが深皿に並べられている。夫は誘惑に負けてデビルエッグを口に放り込み、指を舐めてパジャマの前身頃で指を拭った。そうだ母指を舐めればよかったのだ。舐めれば文庫にシミはつかなかった。
ところでデビルエッグってなんだ。またもやiPadの出番だ。英語ではデビルドエッグが正しい呼び名で、半分に切った茹で卵の黄身に味をつけて白身に戻したものである。復活祭やハロウィンやクリスマスの定番料理だそうだ。Deviledは悪魔という意味もさることながら、「辛い味付けの」という意味である。
読んでいるのは翻訳物のホラーの短編で、夫は起きてきた妻に話しかける。夫がみたばかりの夢の話をすると、乗り気でない妻は適当に相槌を打つ。夫は娘が交通事故に遭ったことを電話で知らされたと、夢の結末を話す。妻は、夢の内容を人に話すと正夢にはならないという古くからの言い伝えを口にする。そこで、不気味なことに電話が鳴り、電話に出ようとする夫の背中に、妻はもう一度さっきの言い伝えを投げかけるところで物語は終わる。
油ジミは文庫の2枚分4頁に及んでいて、チョコレート・フレーバーはしぶとく残っていた。
(令和3年4月号)