石塚 敏朗
お膳を広げた。醤油がない。いつもない。もう5年も続けている。これでいいのだ。それは透析中の制限だから。
なぜ豆腐を選んだのか。それは醤油をつけなくても、十分おいしくて、存在感のある豆腐に出合ったからだ。
6×6センチの小型のプラスチックの容器に入った豆腐をスーパーで買ってきた。横列に3ヶ、縦列に3ヶと繋がった9ヶ組の四角なケースで、表に毛筆書きの、“京の石路”と味のある文字で浮き出している。眺めていると、いかにも京都の古寺の石段を一歩一歩、桜の散る下に登っていった若い頃の旅心が思い出された。薄いプラスチックの上紙をはがすと、つるつるした豆腐の地肌が期待を超えて白く匂い立つ。
黒塗りの箸を豆腐にたてて、“井”の字の形に切れ目を入れる。その左角のひと切れをとりあげて口へ運ぶ。その前に茶碗の酒を、一口だけ舌先に注いでおくことを忘れてはいけない。
気に入ったこの豆腐は、木綿ごしのような田舎めいて荒々しくはなく、武骨なあじけなさもなく、また、絹ごしのような、絵にある腰細佳人のはかなさもなく、舌の先には確かな存在感を残す。その上、舌の上でほどよく溶けて香り立ち、華やかさを匂わせる舞妓とすれ違った、あの後の残り香のように心をくすぐるのだった。
一瞬目を閉じて、舌の先に集中してみる。この旨さがいつか消えて行く心細さ、その儚さの後を追うような幻想が漂った。
「おおッ!やっぱりいいね!」。素晴らしいものに出合った快きことよ、またもや次の一杯に心が向いて茶碗に右指を掛けていた。
ここで変だとお思いであろう、真昼から酒なぞ飲んで、説明しておこう。この7月に誕生日がくると89才、ぞっとする。コロナで生活制限が厳しい中、外出して外の景色の変化に接したり、知人と会話したりの機会もなく、一軒隔てた商店はシャッターを閉じたまま、お手伝いの人も親戚の葬儀など暗いことばかり。
この冬の面白くない毎日を乗り越えたと思ったら、亡妻やら、親たちやらが夢以外にも、突然現れたり、消えたりする。こんな時って、自分の寿命の限界を朧気ながら感知しているのだなと、憶測する。ならば、楽しい一日を毎日積み重ねていこう。こう思ったら酒が一番いい。毎日昼飯と夜飯に5勺づつ酒を楽しむことにした。
このわずかな酒で機嫌が大いによくなる。酔う必要はない、むしろ好まない、悪い習慣ではない、むしろ健康的な発想だと自信を持って、5勺の酒を貴重な宝のように、88才の老人は両手で抱え込んで温める。
(令和3年4月号)