永井 明彦
今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』は、新一万円札の顔になる“近代日本経済の父”、渋沢栄一の波瀾万丈の生涯を描いている。幕末に「東の渋沢、西の五代」と謳われた幕府の渋沢と薩摩藩の五代友厚は、それぞれパリ万国博に派遣され、西洋の事物や社会制度に触発されて帰国し、明治初期の実業界で頭角を現した。“天外者”と称された五代も政商と言われながら大阪商工会議所を設立し、近代大阪の経済復興に貢献した。同時代の浪速の女性実業家で、日本女子大の創立に寄与した広岡朝子を描いたNHK朝ドラ『あさが来た』では、朝子と友厚の交流も描かれていた。五代には大河でも朝ドラでもディーン・フジオカが扮している。100歳になる義母が爽やかなイケメン俳優のフジオカのファンで、女優の波瑠が凜とした主人公を演じた朝ドラもよく観ていた。
明治に改元された慶応4(1868)年の戊辰戦争で世の中が変わり、新時代が来たと思われがちだが、実は明治10年の西南戦争を経ても「誰がどのように、新日本を統治するのか」が定まっていなかった。薩長藩閥が政権を固め、プロイセンをモデルにした国家体制が最終的に定まったのは、西郷、大久保、木戸ら「維新の三傑」の死後、長州の伊藤博文と葉隠発祥の地、佐賀藩の大隈重信との権力争いに決着がついた明治14年だという。以前、札幌の北海道庁を訪れた際、開拓使長官(現道知事)の3、4代目が薩摩出身の黒田清隆と西郷従道だと知って驚いたことがある。その黒田が開拓使長官だった当時、関西貿易会社を経営していた五代は、北海道開拓事業に絡む「開拓使官有物格安払い下げ事件」に関与し、同郷のよしみによる汚職事件が、複雑怪奇な政変と言われた明治14年の政変のきっかけとなった(インターナショナル新書・久保田哲著『明治十四年の政変』)。
後に早稲田大学を設立する大隈や『学問のすゝめ』を著わした当時の言論界のスター、福澤諭吉は、上から政府が強権で押さえつけるのでなく下から民力が智識・言論で国を支える、英国流議院内閣制の採用を提唱した。だが、スキャンダルで薩摩閥の黒田の影響力が低下する中、権力闘争に勝った長州の伊藤は、プロイセン風の帝権・国権の強い君主制明治憲法を制定して議会開設の一大功労者にのし上がり、我が国をトップダウン式の国家にしてしまう。そして、明治政府は日清戦争で勝利し、国民は熱狂して新しい国家体制を支持した。明治政府による福澤の私立学校「慶應義塾」いじめが始まり、政府から慶應出身の官僚が弾圧排除され、官立府県立学校にだけ兵役免除の特典が与えられた。「官尊民卑」のルーツである。文部省による私学冷遇政策は明治14年の政変のもう一つの帰結でもあった。
一昨年のこの欄で、我が国の政治形態には「長州藩閥政治」が未だに生き続けていると書いた。伊藤博文と同じ長州出身の岸信介の流れを受け継ぐ自民党の清和会が、現代政治の混迷を招いている。渋沢栄一は『論語と算盤』を著わし「利益」追求を本旨とする企業家が社会貢献活動する道philanthropyを説いた。しかし、既得権益を強力に擁護しつつ、公私混同して権力を私物化し、crony(nepotistic)capitalism
“縁故資本主義”に狂奔する現代の政官業界の癒着や腐敗ぶりを渋沢が知ったら、どんな感想を抱くだろうか。