蒲原 宏
世界的な霊長類学者河合雅雄京都大学名誉教授が5月14日に兵庫県丹波篠山市の自宅で亡くなられた。享年97歳。老衰の由だが前日まで夫人と買物に行かれていたという。研究論文の他に『ニホンザルの生態』『人間の由来』『少年動物誌』などや草山万兎のペンネームで児童文学作品もある。
アフリカで行われた霊長類進化学研究での
ゴリラの行動に関する論著は筆者の愛読書であった。
河合先生を知ったのは令兄河合仁氏(1919~2009)と新潟医科大学時代陸上競技部の部員同志であったから。海軍軍医学校戸塚分校では同じ釜の飯を食い、お互いこってりと帝国海軍精神を叩き込まれた仲であったからでもある。
海軍軍医学校卒業後の前線部隊の配属はちがったがお互い生き残った。河合仁氏は旧官立東京高等歯科医学専門学校(現・東京医科歯科大学)を卒業し、昭和16年に新潟医科大学に再入学した。筆者は同年に医大の附属医学専門部に入学したので部活動の際の話で私の母が兵庫県丹波篠山に近い寺の出であったこともあって、兄貴分として交流させてもらっていた。父上は歯科医で6人同胞の長男、口数の少ない気心の優しいスプリンターであった。
敗戦後、共に母校での研修と研究を志し、河合氏は外科、筆者は整形外科。然し河合氏は昭和21年から新潟市の竹山病院の外科に就職し、西山義雄外科部長の下で働きはじめた。西山氏が中田瑞穂先生の東大外科での後輩なので世話されたとも聞いている。ある日、町でぱったり出会った時に「河合さん何んで研究室出たんですか」と尋ねた。
「弟が新潟高校(旧制官立)に入学してるんだけどTBがあるんで卒業までは面倒を見なくてはならないからね。兄弟だから仕方ないさ」という話であった。まだストレプトマイシンが公的に使えない時代なので感心した。弟さんは小学校3年に結核になり、中学では胸膜炎で休学しながら卒業したという。
そのTBの弟というのが後の河合雅雄氏であった。筆者と同年だが兵役免除で戦中を生きのびた雅雄氏は旧制鳳鳴中学(現・兵庫県立篠山鳳鳴高校)から令兄の住む新潟市の旧制官立新潟高校に進学し、昭和24(1949)年3月第28回理科(甲1)として卒業している。肺結核のため25歳での卒業。同年卒業で新潟医科大学に入学した故小池吉郎山形大教授、故一柳邦男山形大教授や長岡市中之島の堀猛氏(1928~現)等とは4~5歳のハンディキャップがあった。京都大学理学部に進学して昭和27(1952)年に卒業し、今西錦司教授(1902~1992)の門下生として生態学・人類学の研究に没頭し、昭和31(1956)年愛知県犬山の日本モンキーセンター設立に参加する様になった。
令兄の河合仁氏は、雅雄氏が独り立ちし、四弟隼雄氏(1928~2007)が京都大学理学部数学科を卒業し、高校教師就職などが決ったこともあって、竹山病院を辞して郷里の丹波篠山市に帰り外科医院を開業された。その後も次弟、四弟の研究に対して陰に陽に献身的な援助をされた。
寡黙で細かいところまで心くばりがある令兄仁氏は全く自らを売るというようなお人柄ではなかった。黙々と市井の一外科医として平成21(2009)年6月27日90歳の生涯を終えられた。
次弟の雅雄氏は今西教授の秘蔵子として野外研究に重点を置き宮崎県幸島でのニホンザルの芋洗いの行動を発見するなどサル学の研究、アフリカでのゴリラ研究という苛酷な自然の中での肉体の酷使にも耐え、TBの再発もなく幸運にも97歳という長寿を全うされたわけである。
昭和45(1970)年には京都大学教授、同大霊長類研究所長を兼ねられ、昭和62(1987)年に退官。その後日本モンキーセンター所長をされている。平成14(2002)年には丹波篠山市名誉市民に推挙されたのを機会に犬山市から丹波篠山市に移住され、令兄仁氏が亡くなられる平成21年までの約7年間、老後を共にし楽しまれ羨ましい様な兄弟の交りであったと伝聞している。
雅雄氏の訃報を伝える日刊新聞のどの肖像写真も、全く令兄仁氏と瓜二つの様によく似ているのには驚いた。仁氏は髭を生やしておられなかったので、髭を取れば正に細い目をしたやさしい令兄仁氏その人である。
仲の良かった令兄仁氏、次弟雅雄氏、四弟隼雄氏という理系の三兄弟が極楽の蓮の花を前にしながら、COVID-19の流行を知らぬ令兄に次弟の雅雄氏が娑婆の近況を語っておられるのだろうかと想像している。
河合三兄弟のうち最も早く79歳で亡くなった四弟の元文化庁長官河合隼雄氏(1928~2007)についてふれておく。昭和3(1928)年6月28日に生れる。令兄仁氏の支えもあって、昭和27(1952)年京都大学理学部数学科を卒業し、大学院で心理学の研究の傍ら、高校教師をし、昭和34(1954)年カリフォルニア大学に留学、昭和37(1962)年からスイスのユング研究所に3年間学び、日本人初のユング派分析家の資格を取得、帰国後天理大教授、昭和50(1975)年京都大学教授となる。
ドラ・カルフの箱庭療法を実践し、ユング派心理療法の普及につとめ日本心理臨床学会の設立、平成7(1995)年日本文化研究センター長、昭和57年『昔話と日本人の心』で大佛次郎賞、昭和63年には『明恵 夢を生きる』で新潮学芸賞、平成12(2000)年には文化功労者に選ばれ、平成14(2002)年に文化庁長官となった。平成19(2007)年7月19日79歳で病没している。
2人の賢弟を父母に代って育てた陰の人、新潟医科大学卒業の令兄の外科医河合仁氏があったことと、新潟市の竹山病院の縁について記録してみた次第である。
河合雅雄先生(1923~2021)
(髭を取ると長兄の仁先生とそっくりである)
(令和3年6月号)