佐藤 舜也
コロナで入院できないで自宅待機中に亡くなるという事例が出てきて、野戦病院式に新しい病床をつくるという話が出ている。そう簡単にできるものではないと思うが、中国武漢では10日くらいで新病院を作った実績もある。この新病院ほど大規模ではないが、昔これと同じような経験をした。
まだインターンのあったころ、インターンは鶴岡の荘内病院だった。伝染病棟はインターン宿舎の前にあり、夜間のジフテリー患者の気管カニューレ交換にはインターンが呼び出されるものとなっていた。ジフテリーには医師や看護師も罹患したこともあると聞いていた。ある夜、気管カニューレの交換に呼び出されて、交換する時に患者の咳とともに偽膜が飛び出てかぶったことがある。この時にはジフテリーになると覚悟したが幸い罹患しなかった。
病床を増設したのは秋に猩紅熱が大流行して、伝染病棟には入れない数だったので、急遽病院の講堂にベッドを入れて急拵えの病棟を新設した。その頃は小児科医になるつもりだった私は、当時の佐久間小児科医長に申し出て産婦人科のインターン研修を小児科に振り替えてもらって、小児科の書き番となって、病棟回診(といっても皮疹を診るだけで聴診はなかった)に参加して急造の病棟を回った記憶がある。
この急拵え病棟は長くは続かないで閉鎖した。医師数は増えなかったが、子供に家族の付き添いが付いた時代でも、1病棟分の看護師を急造できたのは疑問だった。あとになって院長をしていた松原先生にどうして看護師を集めたのと聞いたことがある。その頃は結婚すると看護師を辞めるのが普通だったので、周辺に住んでいた荘内病院の看護師OGと看護学校の生徒でなんとかしたようだった。現在ならとてもできない病棟作りだった気がする。
感染症も歴史は繰り返すだろうから、50年後、100年後に誰か同じような経験をするだろう。それを見ることが出来ないのが残念である。
(令和3年10月号)