石塚 敏朗
まるで夢のような話である。小説・百田尚樹『プリズム』に出会った。良家に生まれ育った青年が、幼少時に父親から繰り返し虐待を受け、その辛い、都合の悪い記憶から逃れるために、他の人格に無意識のうちに変身するという多重人格障害の話である。新しい人格に入れ替わった彼は、女性に恋をするほど正常な人格になる。こんないい方法があればと、今の私の憧れになった。
なぜならば私は今、認知症とウツ様症状に悩まされている。特にウツは、吐き気がするほど嫌いである。
今年89才、親の歳を越えて目出度い一方、物忘れが酷くなるし、ウツも加わるし、それを自覚する自分自身がますますいやになるし、計算やATMの送金が出来ないし、食欲低下やら、運動をやる気がないやら、歩くのが面倒になるやら、下の方ばかり見てチョコチョコ歩くので、腰が伸びずに、いつの間にかガニマタになってしまった。
小説のように、特別な意識をしなくても自然のままで、辛い自分から抜け出して、他の人格に成りすますことで出来るという役をやってみたいという思いがつのる。
第一の方法は、小説の真似をして、今の自分の辛くていやな事実を、毎日否定し続けることだ。
二つ目は自己催眠で人格の変移をする手もある。昭和55年頃、自己催眠の本は出版されていたし、新潟市内の講演会にも2回参加した。知り合いの内科と精神科の先生の顔も見えた。
被術者の筋肉を強い緊張から突然脱力させて術に落とし込む方法と、自己催眠の方法の二つを学んだ。
「さて実行にとりかかろう」と、前向きになって真剣に自分の背を押す。自己催眠は腹式呼吸を繰り返すだけのことで簡単である。そんなことを考えたり、準備をしたり、悩んだり、そうしている中にいつの間にか自分の日常が明るく爽やかな方向に変わっているのに気が付いた。
「ウツは敵だ」、と毎日強い思いに火をつけてきたせいか、いつの間にか、自然に、ほとんどことごとく、いい方向に流れていった。結果、今日も平和に暮らしている。
「一人の人間の一日には、自分で実行は簡単であって、必ず一人、『その日の天使』がついている」〈朝日新聞「折々のことば」・中島らも〉
薄紅葉に移り初めた庭の丈の低い樹木を眺め、日本酒のゆらめく朱色の平杯を傾けながら、「自分って、やっぱり変ですかねェ……?」と、覚束ない。
もう一人の自分が、「変な方が、自然でいいですよ!」
(令和3年10月号)