佐藤 舜也
新潟とはくらべものにならない冬の寒い津軽育ちなので寒さには強いはずなのだが、新潟に来て70年近くもなると、老化のせいで冬の寒さが身にしみるようなった。考えてみると平均寿命を遠く過ぎているのだから当然のことである。今年の2月は寒かったので、なおさら春の温かくなるのが待ち遠しかったが、やっと老人にも凌ぎやすい春になってきたようである。昔国語で習った西行の「願はくは花の下にて春死なむ」と言った気持ちがどんなものだったかが、身にしみてよく分かるようになった気がする。時代も環境も全く違うが、人間の身体の老化はそう変わることはないのだから、昔の防寒具も満足でない冬はどんな気持ちで歩いていたのか、あるいは冬は出歩くことをしないで過ごしていたのだろうか。
津軽ほどで寒くはない荘内でも冬の吹雪はひどいので、盲人の按摩が冬自宅のすぐ前まで来て、吹雪のために凍死していたと恐ろしそうに祖母が孫たちに話していたことを思い出す。現代でさえも地吹雪のひどいときには車を放置するようなこともあるのだから、防寒具の満足でない昔であれば、旅人や盲人でなくても道が分からなくなって凍死することはよくあることだったのではなかろうか。冬の間はじっとして家に籠るしかないのが普通だったのだ。
それだけに今よりも春の来るのが待ち遠しかっただろうと思う。津軽では春先に一斉に凍った道の氷を砕いて土を出し、馬橇から馬車への変更するのが通例だった。これは地区が一斉にしないと交通手段である馬橇と馬車が使えないことから、日を決めて地区で一斉にしていたようである。子供でも土が出て来るのが妙に嬉しかったことを思い出す。
もう少し暖かくなると桜が咲くであろう。今年もまた大学や信濃川堤の桜を見ることができそうだ。若いころ春に桜が咲くのは当たり前だった。老人になると春桜を見ることができる幸せがよく分かる。できれば来年も桜を見たいと思うし、ウクライナにも戦火のない春が来ることを願うこのごろである。
(令和4年4月号)