関根 理
私の生まれ育った家は中央区水道町2丁目5932番地に現存するが、誰も住んでいない。この地は新潟島の住宅街の最も海寄りに位置し、すぐ裏に護国神社の本殿と迎賓館がある。私が物心ついた頃は住宅の周辺にあるのは醸造試験場だけで、護国神社も青陵学園も水族館もない、ただの松林だった。私達は路上で相撲をとり、トンボを追い、松林でチャンバラや戦争ごっこをしていた。松林の先はグミ原があり、砂丘が二つあってその先は長い砂浜で漸やく波打際だった。夏は灼けた砂浜をそのまま歩くことはできず、所々で砂を掘って足を冷やして海へ行ったものだった。私の家の裏は学校町浜といい、寄居浜と並んで海水浴の人気スポットだった。学校町から水道町を抜ける岡本小路を通り、私の家の傍から松林の間の径(両側はポプラとアカシアの並木)を通って浜へ出る。私達は褌一つ、裸足でこの径や松林を走って海へ行ったのだ。浜には漁師小舎があり、朝は地引網、日中は舟で大謀網の漁をやっていた。朝使った網は昼は櫓で干してあって、小学唱歌「海」の“干し網浜に高くして”そのままの情景がみられた。戦争中のことで娯楽は何もなく、ラジオも昼間はニュース以外は放送がなかった時代である。夏は家にいても暑いだけだから海へ行くしかなかった。私の家の前の通りは両側に桜の木があったから春は桜のトンネル、冬は雪のトンネルで目を見張る景色だったが、防空上の見地から伐られてしまったのが残念だった。私が国民学校に入学した昭和16年、裏の松林で工事が始まった。護国神社の建設である。それまでは今大学病院の有壬記念館のある丘の上に招魂社という霊所があり、明治以来の県内の戦没者が祀られていた。日中戦争が長引いて戦死者が増え、全国に護国神社を造ることとなり、新潟は我が家の裏の松林がその場所となったのだ。工事は県民の勤労奉仕によって精力的に進められた。昭和19年の落成まで、我が家の裏庭は青天の俄便所となっていた。戦争が終わってこの社の年2回のお祭は花火が挙がったり、夜店が出たり、のど自慢があったりで、娯楽の乏しい当時では貴重な楽しみの場となった。夏には盆踊りも催されていた。
戦後、地盤沈下と海岸決壊で砂浜も砂丘も消え、飛砂防止保安林だった松林は存在価値がうすれて色々な建築物ができ、海浜公園となった。護国神社の他、青陵学園、マリンピア日本海、野球場、プール等々。この地域の地名は「西船見町」である。
(令和4年4月号)