海津 省三
五~六十年前に製作されたヨーロッパ方面の映画で、結局戦争のことを『禁じられた遊び』と言いたかったのであろうが、今のウクライナ戦争で突然孤児になった子供の泣く姿ほど胸を打つものはない。それは地震後の津波で母親が急に行方不明になって「お母さんを捜してー‼」と泣いて訴える悲惨な姿も同じである。ギターで奏でる『禁じられた遊び』も最近聞かなくなったし、良い時代が続いていたのに、とんでもない独裁者が現れてヨーロッパだけでなく世界中を引っ搔き廻している。
太平洋戦争が始まって間もない私が二~三才位の時、新潟市内も散発的ではあるが米軍の空襲を受けた。夜になって廻りを明るく照らす焼夷弾が向かいの家の屋根の形をはっきり映し出した。防空壕と称するニワトリ小屋みたいな処で母親が三男の私をしっかり抱き締めて「省三‼お前は悪い時に生まれて来たなあ。今度生まれて来る時はもっと良い時代に生まれて来いよ」と死ぬ覚悟をしていた様子だった。しかし弾にも当らず爆撃も受けず無事で現在まで生きている。それはただ運が良かっただけである。
この話は以前にも何処かで書いた覚えがあるが、これと全く同じ会話が八十年たったウクライナの地下壕のあちらこちらで囁かれているのだろう事は容易に想像がつく。戦争が激しくて実際に銃弾にやられたり爆撃を受けたりして亡くなる子供達が数え切れないとの悲痛な報道が毎日続いている。
『禁じられた遊び』の映画は第二次世界大戦の最中、父と母と娘の三人が土手の上を逃げるシーンから始まる。そこへ後ろからドイツ軍のメッサーシュミット戦闘機(私が日本語で訳すと人切り野郎)が機銃掃射しながら追いかけて三人を撃つのだが、戦闘機の銃口は主翼の根本の近くに二つ着いているから両親はやられたが真ん中で両親に手を繋がれていた娘だけが助かると云う理屈に合ったひとこまである。現実にこんな無差別殺人が今でも行われている事に何と表現して良いか言葉が出ない。
娘が両親の額と自分の額に手をあてて、ここで死の現実を知ることとなる。でも泣かなかったのは、津波で突然母親が消えてしまうのと違って、両親は未だにここに寝ていて何とかすれば生き返るかも知れないと思っていたからなのかも知れない。それから彼女は近くの親切な農家の人に引き取られて、そこでしばらく暮らすこととなるのだが、丁度年恰好が同じ位の少年と仲良しになって、今は忘れたが大したことでない遊びが展開する。
子供の頃の私自身の悪い遊びは数々あるが、まず新潟駅からSLの無賃乗車で越後線寺尾駅の海側から降りた。不要になった栗の枕木の柵があったが、鉄条網は殆ど破けていたから、他の人もそこから乗り降りしていたようだ。その情景が今でも眼に残っている。目的はすぐそこから海岸近くまで続く西瓜畑で、四~五人が西瓜をラグビーボールの様に手渡ししながら走り、汀についたらそこで穴を掘って隠した。西瓜は重いので子供一人が海岸まで走って運ぶのが不可能なことを自然に皆知っていたから悪い連中の中に私も居た。しばらくして誰もいないのを確かめてから取り出して皆で食べた。私は一番小さかったからラグビーはやらなかったが、冷えて塩味のついた西瓜のうまかったのを良く覚えている。今その畑の持ち主の末裔の方がおられたら謝罪してお金を払いたい。
次の謝罪に値する事件は、小学生の頃、近所の私より四~五年年上の先輩二人が年下の私に何か馬鹿にしたようなことを言ったみたいだった。腹を立てた私が、まさか当るとは思っていなかったのだが、逃げる彼等に向かってその辺に落ちていたゴツゴツした石を非力な右腕をふるって投げた。相手の二人は既に見えなかったが塀越に飛んだ石が一人の頭を直撃したらしい。しばらくしてその被害者の母が私の家に来てさんざん絞られた。その日のうちは気分が悪かったがさして落ち込むこともなく普通に学校に行っていた。そこが雑草育ちの強さであると今でも思っている。高校生になって万代橋を歩いていたらその被害者本人が車に乗って私を見つけ、その頃車も多くなかったから歩道に寄ってニコニコしながら、もう何にもなかったと言いたかった様に挨拶してくれた。それでその事件は一件落着した様にホッとしたのを覚えている。その後私の家が離れたところに引っ越ししたせいもあって彼とは二度と逢うことはなかった。余り逢いたいとも思わない苦い思い出だ。
話は映画に戻るが、戦争孤児の女の子はしばらくして農家の男の子と別れて施設に引き取られることになり、その職員と一緒に近くの駅の中に入り、駅の雑踏の中で女の子が母に似た女性を見つけて「ママーッ、ママーッ」と泣き叫んで追いかけるラストシーンに『禁じられた遊び』の哀愁漂うギターのメロディーが流れて終わる。
ロシアによるウクライナへの無差別殺人が続いているが、ではどうしたら良いのか私なりに考えてみた。シベリヤの奥地から引っぱり出された「聞いてないよ」状態の若者たちが突然ウクライナの危険地帯に送り込まれて乗ったこともない鉄の塊みたいな戦車に乗せられて戦闘態勢に入るのは、それこそ働き方改革─即ち「クーデター」を不満だらけの彼等に教えてあげたいのだが、わたしがロシア語を知らないから無理だ。今からNHKのロシア語講座を受けても間に合わない。しかしロシア艦隊の中で二番目に大きいとされる巡洋艦モスクワがウクライナ製のミサイル(ネプチューン)二発で簡単に沈められるようでは、彼等もやる気を失って、待遇改善―働き方改革の赤い旗印を掲げるのはもはや時間の問題かも知れない。
人間プーチンさんも娘が三人いて必死に守ろうとしているらしいが、核を使えばあなたの身内だけ助かるとは考えていないでしょうね。焦らなくとも人類滅亡は千年もすればやって来るそうで、千年と云えば永いようだが、エジプト四千年の歴史からすればあっという間である。それを戦争と云う大義名分の遊びでやたら爆発させたり燃やされたのでは地球にとってはいい迷惑である。ますます温暖化が進むばかりだ。もうすぐシベリヤが砂漠化するし、両極地の氷が溶けてなくなれば、中国が無理遣り南シナ海方面で岩の上にコンクリートを流し込んで造った飛行場らしきものも、竹島も尖閣諸島も北方四島も全部海に沈んでしまう。そうならない方法はひとつだけある。それは人類があらゆる文明の利器を捨てて縄文時代に戻り、てくてく歩いて鍬を振りかざして畑を耕すことだ。
気管支喘息を持っているがタバコをやめないし、虎の様な怖い顔をした猫まで飼っている患者さんが面白い話をしてくれた。その猫の名前を寅次郎と名付けて可愛がっていたのだが、ある日プイッと家を出て居なくなった。そのうち帰って来ると思っていたのだが、なかなか帰って来ない。そろそろ諦めかけた十日位で、虎の毛並みがヨレヨレでしかも右手で猫パンチを出した所をガブリと噛まれた様な傷跡が痛々しいので私がその患者さんに処方した抗生物質の軟膏を塗ってあげたら傷がなおってきたとのことである。彼には猫語が判るそうで、何があったのか聞いてみた。最初は黙して語らずだったが、何とか少しずつ聞き出すと、どうも猫同士にも仁義と云うものがあって、十日の間縄張り争いに巻き込まれたらしい。寅次郎の方は傷もすっかりなおって、充分休養もとってやれやれと思ったら他の猫達が頻りに迎えに来ているし、寅次郎に云わせれば元々放浪癖のある猫なので、「そこが渡世人のつれー所よ‼飄として風の如く又東へ向かう」とか言って難敵、プチ・プーチンと闘うべく荒野に出かけたらしい。
私もこんな事ばかり書いていると、いつかロシアのKGBに狙われるかも知れない。昔二十年位前に事情があって買った防弾チョッキを着て自転車に乗っているところをトカレフ(ロシアの銃)で撃たれたら極めて危険である。私の持っている防弾チョッキは粗悪品でトカレフの弾は貫通するらしい。コロナを避けるが如く家に閉じ込もっているのが無難と云うものだ。
(令和4年6月号)