植木 秀任
学生時代に、ジャズ評論家の油井正一氏がラジオで「テナーサックス奏者ジョン・コルトレーンに当時のバンドリーダーのマイルス・デイビスが『ソプラノサックスをやるならシドニー・ベシェの『クリシェ』をよく勉強しておけ』と言った」というエピソードを語るのを聞いて「クリシェ」という言葉を知った。シドニー・ベシェは彼らよりひと時代前の演奏者である。コルトレーンは後に「マイ・フェイヴァリット・シングス」というその楽器の名演を残している。その後、「クリシェ」とは音楽的には「コード自体を変更することなく曲に変化をつけ、単調さから脱却させるためのテクニックの一つ」と何かに書いてあり、ジャズのみならずクラシックでも同じような意味で使われていることを知った。外科医になってちょっとした手技的な工夫に出会って、それを自分にも取り入れられないかと思案する時「これもクリシェか…」と勝手に考えることがあった。
ところが、最近SNSでこの「クリシェ」という言葉を使って相手を非難している光景に出会って驚いた。
誠に不勉強ながら今更調べてみると、元来「クリシェ」という言葉はフランス語で「ありきたりな決まり文句」「常套句」という意味で、それが通常の言論的には「陳腐な」「ステレオタイプな」といった否定的な文脈で使われているケースが多いらしい。「クリシェ」に技術的な小さなアイデア、工夫というイメージを持たせているのは音楽的分野に限られているのだろうか。しかも「クリシェな」と言い、人を批判している人の中には例えば、「脱炭素」「SDGs」といった欧米発の、悪くはないが色々矛盾があるような思潮をそっくり受け入れて、縷々と続いてきた日本的省エネの考え方まで全否定するタイプの人を見受ける。そんな発想自体がいわゆる「クリシェ」ではないのか?
「クリシェ」のイメージをなんだか毀損されたようで少し不満を持った私はそんな恨みがましさを感じている。
(令和4年10月号)