阿部 志郎
比叡山の借景で有名な禅寺・円通寺の庭を鑑賞してみたくなって、炎暑の中を京福電鉄の鞍馬線木野駅に降りたった。歩くこと約30分、社の中に円通寺の屋根瓦を見つけた。
蝉時雨の中にちいさな禅寺はあった。黒光りした木の床を踏みしめ、時代の重さと厚さを足で感じながら廊下を抜けると、石庭を見通せる長い縁側に出た。
つい先日までの梅雨で水分をいっぱい吸い込んだ苔の緑が、鮮やかに目に飛び込んできた。
縁側の一角に腰を下ろして、垣根越しに富士のように美しい比叡山の姿を眺めていた。
日々の迷いと孤独感…そんなものが僕の後ろ姿に滲み出ていたのだろうか。
一人の禅僧が、僕の傍らにきて話し出した。「私は禅寺を渡り歩いている僧ですが…」と前置きしてきて、「さきほど貴方が拝観料を払おうと角を曲がる前から、貴方の心の迷いを感じとっていました。どのような事情があるかは知りませんが…」と話をきりだした。
そして、禅僧は更に言った「脚下照顧」と、
つまり「足元を観よ、遠い先を観ずに日々に目をおとせ」と。
又、曰く。「~のために」の考え方を捨て、「~のために」の意識を脱して、なおかつ行動の出来る者であれと。
「代償を求めず、己を精進させよ」と。「捨て去ること、すなわち、用いる事なり」と。
「無欲こそ、最大の人の道。無欲で物事に当れば、即ち、自ら手中に入る」と。
僧が残していった言葉の断片を、頭の中で反芻しながら庭を眺めていた。
やがて1時間も経った頃、その言葉の断片が、今の自分の置かれている状況に明確な解答を与え始めていることに気がついた。そして、小波の立っていた心の湖が、ゆっくりと鏡のような水面になって行くのが感じられた。
ひんやりとした風が、時折、木立を抜けてくる。庭石の点在するしっとりとした苔の緑と木立に囲まれたうす暗い庭より、垣根越しに望む真夏の明るい光のなかに聳える比叡山の頂きは、まさに現在自分の置かれている状況を暗示するかのような景色ではないか!
やがて、陽が幾分傾いたころ、僕は落ち着いて腰をあげた。
その時、心に一つの期するものが出来上がっていた。
あたかも、「蝉時雨の中に微かな松風の声を聞き取れるほどの落ち着きに似たもの」であったかも知れない。
(令和4年10月号)