蒲原 宏
今年の9月18日まで生きていれば満100歳となる予定。一寸過去をふり返ってみた。僧侶の父が「寺の子は不殺生戒を守ってくれ」と文科志望の私に無理矢理「軍医になれ」と言うことで医科に進学させた。太平洋戦争に間に合って海軍の軍医になった。昭和20年8月15日の敗戦で幸にも生き残って母校の整形外科学教室の研究生にしてもらい、天児民和教授の教育を4年8カ月受けた後、会津若松市の竹田病院整形外科の1人医長とし赴任した。1年半後新潟県身体障害者指導所の診療室長と県立新潟病院(県立がんセンター新潟病院の前身)を兼務していたら、昭和35年に県立がんセンター新潟病院になり、そのまゝ在職し平成元年の定年退職まで7人の院長と付き合った。
その間、新潟大学医学部・歯学部の医学史・医学倫理学を教える非常勤講師をやりながら、日本医史学会理事長の職もこなしてきた。国際医史学会、日蘭学会や海外調査、母校の50年史、75年史100年史の編纂など日常臨床と並行して60全冊の刊本を残すことができた。有能な整形外科のスタッフと歴代の先輩院長の理解があったお蔭である。
退職後は幾つかの病院長の誘いはあったが全ておことわりし、医史学の研究と著作に没頭してきた。退職後約35年よく生きつづけて来た。2年ほど前から長年よく支えてくれた家内(96歳)も共にガタが来た。老生の腰椎前辷症による坐骨神経麻痺、その後の糖尿病による腎・心不全にはまいった。
それにコロナ騒ぎで全く動けないのでこの世に残すべきものの選別さえもできないのでは長年何のために生きてきたのかと身の丈を越える既刊の自著にも触れられないのを嘆いていた。何をこの世に残したいのかと考えてみた。血族は子3人、孫9人、曾孫11人でまあ充分。その次は私が昭和44年9月30日にギリシャのコス島に渡りヨーロッパで最も聖なる木「ヒポクラテスの聖樹」の種子を持ち帰り昭和45年4月に播種して育てた。それを母校及び医科系大学に移植して「医学のシンボル」として育ててもらった。平成18年蒲原株として、29株が現存していた。新潟大学に移植後58年の現在、亭々とした大樹となっている。故中田瑞穂先生による碑も建っており、私の名が刻してある。これこそが此の世に残す遺品だったと気付き、いささか心も落ちついた。
今年の梅雨には友人の新保只衛君がこれから採り木して育てた幼木が岐阜大学医学部へ下畑享良先生により、又日本医科大学に志村俊郎先生により移植されることになった。枯死させないで大事に育ててほしい。
この2本の若木が亭々となる日を私は見ることは出来ないであろうが、冥土で満足できそうである。医の象徴であるヒポクラテスの木を日本にもたらし、しかも長生きをしてその成長を見とどけ満足して命の終る日を迎えることができそうである。これは父の考えで医師となったことによるものと泉下の父に感謝している。今年に蒲原株のヒポクラテスの聖樹が31株となる。医学の歴史の研究をライフワークとしてきた老生にとって何よりの遺産をこの世に遺したと自負してこの世を去ることができそうである。植樹した時に俳句の師でもあった中田先生から「やがて大夏木になれと植えらるる」の祝句の染筆をいただいてある。この句碑を母校に建立しておきたいというのが昨今の思いである。
つんつんと若芽つんつん医聖の木
医聖の木つぎつぎと植ゑ梅雨を待つ
医師とても百歳はまれ梅雨ごもり
ひろし
(令和5年4月号)