浅井 忍
「雑誌に書いてみないか」と部活のF先輩に言われた。学部の2年の時だ。学友会委員長を務め、会を盛り上げることにおいては天賦の才能があるF先輩は、卒業して第一解剖の大学院に進まれた。大学院を卒業すると、奨学金の縛りで厚生連の病院に内科医として勤務され、産婦人科のE先生と同郷ということで意気投合したらしい。ちなみに、F先輩の出身校は大分鶴崎高校である。E先生に、エロ雑誌に原稿用紙で10枚程度の記事を書く人物を紹介してほしいと、依頼を受けたという。それが私のところに回ってきたのだ。
教養課程の時に、SF好きの仲間が集まってガリバン刷りの同人誌を発刊した。SF好きといっても高校生からそうだったわけではなく、同級生の友人の影響で急遽SFを読み出したという、にわかSF好きの集まりだった。そんな経験があったから、執筆依頼がきたのだと思う。記事は受理され5000円の原稿料を手にした。掲載された雑誌は、いかにもエロ本然とした下品感が漂う装丁で、ページに癖がついて同じページばかりが開くようなゴワゴワした紙質だった。記事の著者名に自分の名前が掲載されるとまずいなと思った。幸い記事にはE先生のペンネームらしい名前が記載されていて安堵したが、自分の書いたものが他人に取られたような複雑な気持ちになった。原稿料は部活の後輩2人と学校町の居酒屋で痛飲してなくなった。
その後20年ほど経って、元締めのE先生は患者に淫らな行為に及んで警察に逮捕された。今はどうされているのか存じ上げない。F先輩は他大学の消化器外科に入局された。首を2回吊ったものの2回とも無事生還されたとの噂だった。その後、F先輩は消化器外科を辞めて新潟市近隣の自治体の診療所に勤めることになった。久しぶりにお会いして、首を2回吊った話の真相を訊ねると、高脂血症で左右の頸動脈が詰まり手術を2回受けたという。尾鰭がついて2回首を吊ったことになったとわかって大笑いした。
10数年前のみぞれの降る12月に、F先輩は脳梗塞で亡くなられた。離婚したばかりの元奥様の依頼で、F先輩と昵懇だった整形外科医のK先生と私とで、葬式の手配をした。米国在住の娘さんが急遽帰国して喪主となり、元奥様も葬式に参列された。出身医局の教授をはじめ、F先輩にゆかりのある大勢の方々が参列してくださり、葬式は滞りなく行われた。棺桶に眠る口髭を生やして口を「へ」の字に結んだF先輩は、堂々としていてまるで戦国武将のようだった。
御斎の席でK先生と酒を酌み交わしながら、将来、K先生または私が日ごろの不徳で葬式を家族に手配してもらえない状況になっていたら、お互いどちらかが葬式を手配すると約束を交わした。
(令和5年4月号)