阿部 志郎
新潟大火は68年前、昭和30年10月1日未明の出来事だった。
当時、私は小学校1年生・7歳だったので、所々の記憶しかない。
両親の会話が耳に入り目が覚めた。部屋は暗く、窓ガラスが強風でガタガタと騒々しい。
“西の空が真っ赤だ。西新潟が火事みたい”の言葉が耳に入った。
(私達は山の下地区に住んでいたから、西の方角が新潟島にあたる)
親父に促され二階の窓を開ける。開けたとたん、西からの強い風が部屋に入り込んだ。西に顔を向ける…漆黒の空の底が真っ赤に染まっていた。時折、火の粉も降ってくる。きな臭い空気が鼻を突く。一瞬にして状況を理解し、恐怖で体が震え始めた。夜の火災は距離が実際より短くみえ、今にも燃え移ってくるかのような恐怖に駆られる。
弟が県庁近く・東中通り脇の“みどり幼稚園”園児なので、建物の様子を見に行くと父は車を走らせた(父は診療所の医師で、既に往診用の自家用車を所持していた)。
帰還した父は“東中通りは火の粉が風に呷られ波のように路面をうねり、ビルの谷間の道路は生暖かい風の通り道で、新潟日報本社建物の窓から炎が上りとても危険で近づけない。しかたなく引き返してきた”と状況を話した。火元は県庁近くの木造教員宿舎らしい。その報告から、現場を疑似体験したような錯覚に陥り、情景が今も脳裏に焼きついている。
翌朝、ランドセルを背負い通学路を歩く。背後の道路の先(西新潟方面)は空低く靄のような雲がたなびいていた。渦巻くような強めの風を肌で感じながら…。
後日、みどり幼稚園へ火事見舞いを兼ねて、新潟交通のバスで西新潟へ向かった。万代橋から信濃川左岸で火災が遮断された現場を目撃。幅広い大河によって東新潟への延焼は免れたのだ。礎町の道路を左に緩く曲がり柾谷小路の直線に入った。前年までみどり幼稚園へ新潟交通のバスで通園しており、そこからの町並みは目に馴染んでいた。
その光景を知っているがゆえに、そのギャップに驚嘆した。
左右の窓から見える景色は焼け落ちた建物の瓦礫で殆ど建物はなく、ただ所々にポツンポツンと土蔵だけが焼け残っている。耐火性抜群の白壁が非常に印象的だった。
父方の祖母は明治30年代生まれで、市内の西堀界隈に暮らしていた。
当時、この大火を話題にしたら、新潟は昔から大火の多い町だと教えてくれた。
明治41年の大火では、木造の初代萬代橋は川中に中央部分を残して焼失した。
新潟市は冬の季節風もあり、大火になりやすい町だと言っていた。
調べたら、今までに明治13年、明治41年に2回、昭和・新潟大火の計4回あった。
昭和・新潟大火は、台風22号が日本海にあり強風・フェーン現象だったと記録されている。
“この大火で死者はいなかった”の記載があり、新潟市民の防災意識は高いと思った。
過日、床屋で散髪の折、同店の客と新潟の災害を話題にしていた。新潟地震を主題としてたが、それ以前の新潟大火に触れたら“そんな事があったのですか?”と昔人間に扱われた。これはまずいと…それ以後、新潟大火の話題を持ち出さないようにしている。
(令和5年10月号)