蒲原 宏
目下、腰椎前辷り症による両坐骨神経麻痺と糖尿病が原因の腎不全、心不全と利尿剤の副作用による10万人に1人見られるという急性汎発性発疹性膿疱症(acute generalized exanthematous pustulosis, Lasid)の治療を受け小康を得ながら筆をとり、俳句の選者をさせてもらって生きている。本誌が手元に届くまで生きておれば満100歳と1カ月ということになる。私が大学で精神科の講義を受けた鈴木保穂先生(松浜病院1915~2022)は107歳、内科外来で指導をしてもらった川原タケ先生(新潟市1921.2.27~2023.4.8)は102歳の長寿を全うされた。長生きの2先輩。令和2年の県医師会名簿をめくってみたらどうも私が最長老医になってしまったらしい。日本整形外科学会でも2万数千人中の最長老だと通知をもらった。県立新潟中学校(現・県立新潟高校)の昭和16年卒業生254名中医師になったのが35名いた。令和4年まで私と杉山靜也君(1923.7.2~2022.11.25)の2人が生きていたが老生1人となった。
杉山君は中学校で席が隣りで温厚の人柄で、千葉医大出身の生涯一村医に徹して終った。
火災類焼後の貧乏寺に関西から嫁いだ母は18歳で予定より1ヶ月半ほど早く私を生んだ。乳が足りなくて発育が悪く、3歳まで歩けず、喋らず、馬鹿を生んだと言われ、母は肋膜炎と戦いながら苦労した。小学校頃から魚より牛肉を食べる様になり母子共に健康となった。1週間に2回はスキ焼だった。台所の主導権が祖母から母に移ったせいであろう。関西風のスキ焼がわが家に健康を定着させた。学校の成績も一寸向上、陸上競技の選手にもなることができ、市内小学校オリンピック大会で湊小学校の連年優賞のチャンピオンにもなった。
父の体質を受けついでアルコール類は全くダメ。父と同じ糖尿病因子があるのでお酒とは縁が薄い。自然禁酒。甘い物、高カロリーのものを制限もなく追い求める悪癖に勝てず、美味いものがあると聞けば渉猟した罰で糖尿病と格闘せねばになった。人生の不覚。無智医の典型。
父は6歳からタバコを吸っていたというので抱かれても、近くで話をしていてもタバコ臭い息がにおってくるのが嫌でたまらなかった。ストレスのあった時に一寸吸う真似をしたこともあったがすぐ止めた。不摂生だったが酒・タバコをやらなかったことが長生きに一寸よかったのかも知れぬ。趣味の医学史研究と俳句が最晩年でも人貧乏をせずに今も交流を楽しみ病苦に耐えておれる。心配なのは少しとろくなってきた96歳の家内を残してゆくことであろうか。子供3人、孫9人、曾孫11人。日本民族を残すのに一寸貢献したかと思える生涯の終る日をあまりきかない薬をのみながら90%の人が痴呆のケアハウスで終わりの日を待っているだけである。
近詠
哀楽も喜怒も薄れてゆく秋ぞ
医師とても百歳は稀人の秋
山眠るごとくこの世を終りたし
ひろし
(令和5年10月号)