蒲原 宏
巨匠高浜虚子の言葉を借りて言えば、俳句は文章と異る。喜び、驚き、悲しみを言葉少なに人に伝へるもの。聴く人に大きな感動を与える。余韻、余情をたのしむもの。
松尾芭蕉は「わび」「さび」「しほり」「ほそみ」「かろみ」と季題の重要性を説いている。
時代によって季題は次第に増えてきているが「月」に関して、一応秋の季題として定着している。しかし、春夏秋冬の「月」については多くの季題がある。「寒月」「梅雨の月」などはその好例であるが、秋の終りから冬に至る11月頃の月について「月冷え」という季題の句が見られるようになったのは昭和時代の中期頃からのように記憶しているが、まだ定着したとは言えない。
しかし、現在出版されている俳句歳時記には「月冷え」を季題として載せているものは令和5年10月現在1冊もない。
老生の記憶では「月冷え」という季題を最初に使ったのは俳誌『まはぎ』の先輩で、俳誌『花林檎』を主宰された青森市の村上三良先生(1911〜2004)であったと思う。雪俳句叢書の中に句集『月冷え』というのが残っている。しかし、「月冷え」は季題としていまだに定着した形跡がない。
秋の終り、十三夜が過ぎ、冬の月と感じられるまでの極く短かい期間に見られる月光の冷たく天空を占める冷え冷えとした情景は「月冷え」という言葉で描出する自然現象と言える。
新しい季題として俳句歳時記に「花冷え」などと同格に採用されるべきであると考えている。
その様な思いをつのらせて季題「月冷え」の俳句を作ってみようと老耄をも忘れて挑戦試みてみたのが以下披露する拙句。
「月冷え」
月冷えの田の真ん中のケアハウス
月冷えの物音もなきケアハウス
月冷えの物音もなき十三時
月冷えのケアハウスの午前二時
月冷えの町の灯遠しケアハウス
月冷えの深閑としてケアハウス
月冷えの丑三つ時のケアハウス
月冷えの灯火暗しケアハウス
月冷えの人声もせぬケアハウス
月冷えの月光淡きケアハウス
月冷えのやがて雨音ケアハウス
○
月冷えの青き天空美しき
月冷えのガス灯の町深閑と
月冷えの街深閑と灯暗し
月冷えの赤提灯はラーメン屋
○
月冷えの沼ひろびろと平らかに
月冷えの沼のしじまの沈々と
月冷えの海平らかに平らかに
月冷えの海細波の渺茫と
月冷えの浦の細波音もなし
月冷えの夜の潮鳴り始まりし
○
月冷えの裏佐渡らしき波の音
月冷えの島に逗留はや三日
月冷えの沖に漁灯ほつほつと
月冷えの島へ最終夜航船
月冷えの潮騒かすかなる泊り
月冷えの島の陵山のごと
○
月冷えの空ゆっくりと雲流れ
月冷えの夜明けも近きしじまかな
○
月冷えの会津四郡山ばかり
月冷えの限界の村荒涼と
月冷えの越後平野の渺茫と
○
月冷えの机に栞せし歎異抄
月冷えの机によれよれの英和辞書
月冷えの机に書きかけの稿二三
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千鳥ヶ渕懐古
月冷えの千鳥ヶ渕に戦没碑
月冷えの殉国の碑に額きし
月冷えの無名戦士の碑に諷経
月冷えや鬼哭啾々戦没碑
月冷えの千鳥ヶ渕を去り難し
月冷えの千鳥ヶ渕の静もれる
以上四十句ほど習作を試みたのであるが、100歳を越えた錆びついた大脳の産物なので句会に出句したらどの句が選に入るやらおぼつかない。ましてや歳時記に模範句としての収載などは思ってもいないが、せめて一句くらい不在投句の会の選に入ったらと思っている。
新しい季題としての「月冷え」の定着した歳時記の出版を期待したいし、俳句に興味のある人はこの季題に挑戦してほしい。
新しい季題の提唱と定着にはこの様な作句の試みを自からに課して実践するしかないが、それに気付くまでには写生俳句の骨法を練るしかない様に思う昨今である。銘吟を残すのは難しい。