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新潟市医師会報より

新潟市医師会

シーボルトの桜、その2「高砂」

佐々木 壽英

「シーボルトの桜」を新潟市医師会報629号に投稿したところ、100歳の蒲原宏先生から、自筆のハガキを頂いた。約40年前に津川の郷土史「阿賀路」に佐藤見瑞医師について書いているので、参考にしてほしいとのことであった。このハガキに「見瑞医師はシーボルトと直接の関係はなかった」と書いておられた。

早速、県立図書館で蒲原宏著「佐藤見瑞(延敬)越後方面御陣中経験治療録の紹介」10頁を入手することができた。蒲原先生の論文には、見瑞医師60歳頃のことが「越後方面御陣中出張、明治元辰5月2日」をもとに患者名入りで治療内容まで詳細に記されていた。

蒲原先生はその論文の中で、蘭学研究資料からシーボルトの門人の中に見瑞の名を認めることができなかった。更に、「口承家伝のように見瑞がシーボルトから西洋医学を学んだとするには日本滞在期間からしても首肯しがたいものである」と記載されていた。蒲原先生は、シーボルト初来日の時に見瑞医師が長崎を訪れたと考えたから、この記載になったと思われる。

シーボルト初来日の時、見瑞は14歳から19歳であった。新潟市医師会報「シーボルトの桜」で、2回目の来日の時、見瑞は19歳から23歳と私は書いたが、正確には49歳から53歳が正しい年齢で、私の誤りであり訂正する。

更に、「シーボルトのお庭番」の熊吉に梱包してもらって、と書いたが、再来日の時に熊吉は長崎にはいなかったので、これも訂正しなければならない。

見瑞が長崎を訪れたのは再来日の時期であり、見瑞50歳の頃であれば、話は違ってくる。

そこで、シーボルト記念館に電話してみた。「シーボルトが鳴滝塾(ナルタキジュク)で西洋医学を教えたのは初来日の期間だけであって、シーボルトの再来日の期間は塾生への教育はなされていなかった。鳴滝塾の塾生の中に加茂の森田千庵医師の名前はあるが、津川の佐藤見瑞医師の名前はない」とのことであった。

シーボルトが再来日したのは1859年8月6日である。初来日した時に鳴滝塾として使っていた赤いレンガ造りの建物は既に人手に渡っていたが、シーボルトはこれを買い戻してここで診療をしていた。シーボルトは1861年4月13日まで、1年7か月余り長崎に滞在していた。その後、横浜に移ったが、1862年1月24日から5月6日まで長崎に滞在し、5月7日に長崎から帰国の途についた。

シーボルト記念館の担当者から「シーボルトが長崎に滞在した時期に、この診療所を訪れていれば、シーボルトから指導を受けることは可能であったのではないか」との説明を受けた。さらに、「シーボルトは再来日の時も全国から樹木を集めていたので、桜の木を贈呈された可能性は否定できない」との返事であった。

1862年8月は、会津藩主松平容保が京都守護職に就任した時である。その数年前、50歳頃の見瑞が会津藩の藩命により長崎に赴き、長期滞在して13歳年上のシーボルトから西洋医学を学んだ可能性はあると思っている。

その後、栃堀の渡部達也さんからお手紙を頂いた。夷棚に住んでいた人からの話では、この桜の種類は「松月」という桜で、夷棚集落に3本あり、花が美しいので色々な人が貰って植えたが、根付かなかったとのことであった。

新潟県立植物園で、栃堀の桜に似たサクラが英国・キューガーデンに学名Cerasus serrulata Hokusaiと命名されて伝わっているということをお聴きした。阿賀町のシーボルトの桜として伝わっている桜についてこれ以上深く追求できるのは、富山県中央植物園の、我が国で桜の第一人者である大原隆明先生しかいないと思った。

そこで、大原先生にこれまでの経緯と資料、さらに栃堀集落の桜の写真10数枚を同封して、次の3点について解明をお願いした。

1)この桜の品種名が「松月」であると伝わっていますが、正しいでしょうか? 2)シーボルトがオランダに持ち帰り、「Hokusai」と命名した桜の品種名は? 3)阿賀町の「シーボルトの桜」は「Hokusai」と同じ種類でしょうか?

2023年の暮れに大原先生から電話を頂き、2024年正月に詳細な報告の手紙を頂いた。その内容を要約して記載する。

『栃堀集落の桜の種類は、「松月」ではなく「高砂」である。それは、栃堀集落の桜の写真判定で、小花柄や若葉に密に毛がある。花床筒(がく筒)が太く大きめなどの特徴から「高砂」という品種と思われる。(「松月」は無毛である)。

この「高砂」はフランスの学者Carriereが1866年に「Cerasus siboldtii」という学名で発表している品種で、その記載文の中に「シーボルトが日本から輸入してブリュッセルで展示したもの」との記述がみられる。したがって、この「高砂」はシーボルトが日本から持ち出したものであることは間違いありません。

ただし、1つ問題点があります。高砂という品種はもともと北陸など日本海側で広く栽培が見られる品種です。石川県、富山県や新潟県などの山間集落の民家や寺院などで植えられているのを、今でもよく見かけます。

イギリスの「Hokusai」を画像で確認する限り、小花柄や若葉は無毛であり、明らかに阿賀町のシーボルトのサクラとは別品種です。「ホクサイ」はシーボルトが持ち帰ったと考えられる八重咲きのサクラです。英国のサクラ研究者Colingwood Ingramが1925年に“Hokusai”という品種名で英国王立園芸協会の会報で発表したものです。』

大原先生は『まとめると、阿賀町栃堀のお尋ねのサクラは「高砂」であり、シーボルトにもゆかりのある品種なので、長崎から佐藤見瑞が持ち帰ったという説は矛盾しない。ただし、この品種は元々新潟周辺には多く栽培されているので土着のものである可能性も否めない。』と結論付けて下さった。

そして最後に、大原先生は『佐藤見瑞が長崎から持ち帰ったという伝承があるということを後世に伝えることは、その時代に当地にも先進的な志のある医師がいたということを知ってもらうために重要なことかと思います。そこにサクラが加わることで、より華やかに多くの方々の関心を引くことにつながるようにも思います。ぜひ、この伝承を後世にお伝えいただきますよう、お願いします。』と結ばれていた。

栃堀集落の渡部達也さんと阿賀町観光課に、大原先生からの手紙とその結論について報告し、今後のことを検討したいと思っている。

参考:大原隆明著「サクラ」ハンドブック

文一総合出版

栃堀集落のシーボルトの桜「高砂」

(令和6年2月号)

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