佐々木 壽英
書店で『防風林』という随筆集が目に留まった。著者は3歳の1935年から戦前戦後20年間、学校町3番町の中小路に暮らしていた藤田嫩(ワカ)女史である。新潟の思い出を綴った中で、子供二人が松波町の海岸で迷子になった時のことが防風林の題で記されている。「交番に駆け込むと、お巡りさんは自転車に飛び乗って、海岸の松林の中に消えて行った。私も別な道から防風林の中に入っていった。暗い林を抜けて砂丘にのぼると…」 東京暮らしの筆者にとって、新潟での思い出の原点は矢張り松林と海であったであろう。この随筆を読んで、新潟における防風林の歴史を知りたくなった。
『にいがた海岸林物語』の中に記載されている防風林の歴史について、その概略を紹介する。
江戸時代、新潟海岸の住民たちは、風が吹けば「砂ふぶき」のために家や田畑の作物が砂で埋まるという被害に苦しめられ、歴代の藩主はその対策に頭を悩ませていた。そんな時代に、牛腸金七という町人が考え出した「簀立て(スダテ)」工法が飛砂防止策として採用された。現在もこの工法は使われている。明治時代になると新潟の街は人口が増え、住宅、学校や病院の用地として多くの砂防林が伐採された。これを憂えて新潟の湊小学校の先生・児童・卒業生がお金を出し合い500本の松の木を砂丘地に植えた。この運動が市内の小学校に広がり、明治44年には小学生が植えた松の木は1万本にもなったという。その後、長い年月をかけてグミの木や松を植えてきたお陰で、新潟市内の砂の被害は減ってきている。
最近、防風林に隣接した民家近くの松10数本が伐採された。最も太い松の年輪は117年であった。伐採された松は、明治41年に小学生たちが植えた松であろうか。
(令和6年4月号)