蒲原 宏
整形外科医の現役時代の学友は全くの男社会の交流が主で女性との交流は大学の俳句部でごく少数の看護師と同席するくらいで、友人としての交流というよりも句敵というお付合いであった。
酒は飲めないし、麻雀、ゴルフなども興味がなかった。スポーツもお付合い程度の男社会の儀礼を果すだけで野球の話など全くの興味がなかった。余暇は専ら郷土医学史から始まって整形外科学史の調査を俳句の吟行で過していた。
70数年前の俳句界は全く男社会で、女流の参加は稀れの時代。句会に30人集れば女性は2人か多くて3人という状態であった。
その後、50年となると俳句結社のメンバーは女性約85%というのが定着してしまった。大変化。
医師としての現役を退いて医学史研究のかたわら俳句の結社、俳誌『雪』の主宰選者に選ばれたのが平成17(2005)年。圧倒的に女性俳人の同人が増加し、吟行句会等での交流の機会が増えた。
俳句結社に加入してくる女性の年齢は一般的に中年以後が多く、当時の私の年齢より以上の女性が50%以上であった。私より早逝の方が増えていった。
結社の主宰として引受けた時には600人ほどのメンバーであったが、令和5(2023)年1月に結社の終焉。主宰俳誌『雪』を544号(昭和52年創刊)で終刊とした時には200名ほどに減少していた。
しかし、女性俳人の比率は85%ほどのままで依然としてその高比率は変っていなかった。
令和5年1月には私自身99歳と4ヶ月という超高齢であり、すでに、第5腰椎前辷り症による両坐骨神経麻痺、糖尿病、それに伴う腎不全と心不全によって治療のため入退院をくり返していたが、句友に助けられて何とか結社の後始末をつけることができた。有能有徳の俳人 塚田采花こと桜井浩治 新潟大学名誉教授、元銀行員 大竹石南こと大竹佳夫それに小林光子、荒木あき子の2人の女性俳人の献身的な御協力によるものであった。
俳句結社「雪」が新潟県俳句史から姿を没してしまうことを惜しみ、老生が生きている限り結社活動を「俳誌」がなくとも続けていこうという計画を開始したのが地元の女流俳人たちであった。
まさに孤塁を守る女性戦士のごとく村松句会、紅雪句会、第二さわらび句会、俳句を楽しむ会、峠句会はそのメンバーの90~100%が女性という毎月の定例俳句会が催され、私も投句をしながら選者として作句指導を依嘱させられている。私自身にとって、100歳以上になって数多くの知的な女性の友人、俳句仲間を持つことができているのは嬉しいことである。大いなる刺激。
まさか人生この様になると思って俳句を続けたわけでないが、若年(16歳)にして俳句を知り、その後、中田みづほ、髙野素十、及川仙石という俳人医学者の指導を受け、写生俳句を志してその師の師 高浜虚子の俳句を信順したおかげで数多くの女性俳人という親友に出会い、楽しみを共にすることが、人生の終末に近くなっても続いている。主として多くの女性の俳人たちに助けられ超高齢になって俳人名利をほしいままにさせてもらっているのは有り難いことである。
超高齢の大脳前頭葉にとっても良い刺激になり、病苦を忘れさせてもらっていることにもなるのではなかろうかとも思っている。
おかげで余談であるが税の確定申告書の細かな医療費減免を申告する書類を整理し100歳を過ぎてもいまだに仕事をして書いている仕儀にもなっている訳。
女流俳人との文通の交流が多いのでケアハウスの事務員が訝るほどである。面会も女性俳人が多いのでこの老人何者なのだろうと思ってるらしい。最近ようやく「先生」と呼んでくれるようになったが、新米の介護士は並の呆け老人と思っているらしい。体動の不自由なため襁褓をしているのだから仕方ないと思っている車椅子生活。
女性俳人との交流もすでに足かけ20年余になり、私より若いと言っても70歳代から80歳を越えておられる方が多いので、御主人の不例、自分自身の持病の持ち主もあり病気の悲しいお便りに接することも少なくない。時々差入れもあり有り難い。
最近親しい2人の女性俳人に先立たれてしまった。2人とも私より若い方々であった。
その1人は新潟日報の俳壇選者をしておられた黒田杏子さん(1938~2023)85歳、俳誌『藍生』の主宰、昭和13年8月10日生れ令和5年3月18日没。脳出血であっという間の死。
高浜虚子の門人 山口青邨の弟子で、医師の娘。晩年は一遍上人を主題にした、壮大な連作を発表して注目をあび好調であった。私の句集と俳句史の研究を高く評価してもらっていた。拙著『佐藤念腹評伝』、句集『愚戦の傷痕』を俳壇に広く紹介して下さったが、あっ気ない生涯を終えられた。子供はおられなかったが金子兜太などもこの人の力によって世に知られた人を立てる惜しい人であった。
もう1人は「雪」の元同人 髙橋わこ(1939~2024)こと髙橋和子さん85歳。旧逓信省系のキャリアウーマン。定年退職後俳句の仲間となった。御主人を早く失われ、松毬句会をへて「雪」同人として、さわらび句会の幹事として献身的な努力をされた。字も上手、料理も上手、そつのない人あたりのやさしい人であり、グループの皆にしたわれた好人物であったが、お子さんが授からなかった。句会はほとんど欠かされることなくすなおな写生句には情があふれていた。
1年ほど前から体調がすぐれなくなり済生会新潟病院を受診したら骨髄異形成症候群との診断で加療されることになった。予後不良である。
今年の1月28日に「毎日薬6錠、抗ガン剤2錠飲んでいます。薬のせいか毎日が眠くうとうとのろのろ、何も仕事が手につかぬ日々です。2週間に1回の輸血、待ち時間4時間。これにはまいっています。主治医からは“病気は進行しています。その時は覚悟してほしい”と言われました。私としては心の準備は出来ていますので残された人生を楽しくをモットーにしてまいりました。先生に俳句を御指導いただいた事が何よりの力になっております。」とのお手紙をいただいた。1月30日には句友 若槻文子さんと寺尾公園に吟行。2月3日の句会に出席予定であったが、1月31日急遽入院。2月4日10時53分に逝去された。姪御さんから「楽しかったよ」の伝言があった由。遠逝の前日句会場の句友に電話で別れをつげられたという。この真似は出来ぬ。
辞世の句は「凍星の夫のもとへと旅立ちぬ」であった。2月6日御葬儀の後2週間ほどして彼女の訃報を知り、その急逝に驚き心から御冥福を祈った。わこさんは平成25年NHK全国俳句大会で「母となる夢すてきれず赤のまま」という名句で佳作入選しておられる写生俳句のベテラン作家であった。生涯、母となることを思いつめられておられたと思うと、涙の出るほどその心情がいとおしい女性俳人であった。彼女の遺句集をまとめようと女性俳人達が目下編集を開始したという。
老耄ながら微力でお手伝いしたいと思っている。
立春の日の絶吟のただ悲し ひろし
(令和6年4月号)