佐々木 壽英
胃がん術後3か月で外来通院をしていた患者の奥さんから、外科外来に電話が入った。「主人に、あなたの病気は胃がんで手術をしたけれど、がんは取り切れなかったことを教えてしまった」と云う内容であった。その直後、この患者さんが外来に飛びこんできた。「話は聞いた、家内の言うことは本当か」と問いただしてきた。私は問われるままに手術の内容を克明に説明し、再発は免れないこともお話しした。
次の診察日、患者さんは受診しなかった。心配になり、奥さんに電話を入れたところ「毎日飲んだくれているんです」とのことであった。
これは昭和53年(1978年)5月のことで、がん告知が一般的でなかった頃、駆け出しの外科医が受け持った患者さんの話である。
この患者さんの年齢は50歳くらい、Stage4胃がんで非治癒切除に終わり、抗がん剤を服用しながら外来通院をしていた。
その後、3週間ほど酒におぼれていたが、ある日ヒョッコリと外来に顔を出した。今度は、この前とは違う真面目な顔で「俺はイカ釣り船の船長で、死ぬ前に友達に船の権利を譲りたい。そして、その友人にイカの漁場も教えたい、船に乗っていいか」ということを話してくれた。
当時開発されたばかりの経口抗がん剤を服用していたので、「船に乗ってもいいが、2週間に1度は必ず帰ってきて外来に顔を出すように」と言い聞かせて、乗船を許可した。胃切除後だから、食事には気を付けなければならない。特に船の上で長い時間空腹にしていると低血糖で意識を失うことがあり、間食をとることが重要であることなど細かな注意点をお話しした。
そうしたところ、6月の終わりには出航していった。そして、2週間に1度は必ず外来に顔を出していた。新潟沖から始まった漁は、イカの群を追って次第に南下していった。外来を訪れる度に、夜のイカ釣りの話を楽しそうにしてくれていた。
秋になったころ、能登沖からさらに南へ向かうと言っていた。どこまで行くつもりかと聞いたところ、九州まで行くとのことであった。
夏に新潟沖から始まって、九州に向かったのは冬になったころであった。毎回帰ってくる度に、診察と血液検査でチェックしていた。
昭和54年2月になると、恐れていた左鎖骨上窩のリンパ節が腫大してきた。組織診で転移が確認され、腫瘍マーカーCEAも上昇してきていた。もし九州で具合が悪くなったら、船を置いてでもいいから、飛行機で帰ってきなさいと言い聞かせておいた。
昭和54年5月4日、「飛行機で帰ってきた」と言って予定より早く外来に現れた。見ると既に黄疸が出ていた。早速入院して処置をしたところ、幸いなことに黄疸は軽減した。
その後、約1か月入院して6月10日に亡くなられた。入院中は愚痴一つこぼさず、亡くなるときも安らかな顔をしていたのが印象的であった。穏やかな最期を迎えることができたのは、友人に船の権利を譲り、漁場を教えるという最後の仕事をやり終えたという安堵感があったからだと思っている。
定年後20数年たった今でも、心の奥深く記憶に残っている患者さんである。
奥さんががん告知をしなければならなかった原因が、主治医側にあったことは確かである。本人は体調がよくなったら、集魚灯に照らされた夜の海でイカ漁をしようと、その日を心待ちにしていたであろう。イカ釣りの季節が迫ってくるのに体調は思わしくない。主治医から納得のいく説明はない。医療不信に陥り、奥さんに「手術の後、主治医からなんと説明を受けたのか」と詰め寄ったのであろう。
このことがあってから、末期の人にこそしっかり告知をして、最後の仕事をやり遂げられるようサポートしなくてはいけないと思うようになってきた。
当時、がんセンターには温情派がおり、がん告知推進派と議論が長い間繰り返されていた。その後、病院改革の一環としてインフォームドコンセントが定着し、やっと本格的にがん告知の検討がなされるようになってきた。しかし、それは約20年後、1990年も半ばになってからであった。
定年退職した3年後、2004年2月に読売新聞福岡支局の記者から職場に電話が入った。すぐにがん告知の話だなと思って電話をとった。電話の内容は、福岡のがん患者さんが告知を受けなかったために不利益を被った、がん告知の現状はどうなっているかという問い合わせであった。なぜ私のところに電話が入ったかというと、厚生省がん研究班で、私が「がん告知の現状調査」を行ってきたからであった。
私は、1996年から1999年まで4年間、全国がんセンター成人病センター協議会(全がん協)で、厚生省がん研究助成金による研究班の班長を務めてきた。この研究の一環として我が国のがん専門病院24病院でがん患者さんへのがん告知に関するアンケート調査を行った。
1997年5月と6月の2か月間に胃がん・肺がん・大腸がんの診断で入院した患者すべてを対象としたものであった。24病院から協力が得られた症例数は1,215例であった。
入院時に「主治医から病名をなんと告げられたか」という設問で、はっきり「何々がん」と書いた方だけが正確な告知を受けたと判定して「告知率」を算出した。告知の回答に対して主治医が訂正を加えられない方法として、アンケート用紙に回答を記載した後、患者自身が封印する。主治医は封筒の表に治療前の診断名と進行度を記載し事務局に送付することとした。
この当時、一般病院でのがんの告知率は20%から30%くらいと推定されていた。この調査を行ったがん専門24病院でのがん告知率の最高は、ある国立がんセンターの97.3%、最低は全がん協へ新規に加盟した県立病院の22.9%と大きな差を認めた。全がん協加盟24病院の平均は75.1%で、新潟がんセンターの告知率は80.6%であり、ほっとしたことを覚えている。
末期がんに対する告知には、医師と患者・家族との信頼関係があること、告知後の精神的ケアや支援体制が整っていることが重要となる。
現在は、告知の体制も充実しており、一般住民も告知は当たり前と思う時代になってきた。がん告知も100%近く行われているであろう。
ここに記した患者さんの話は46年も前のことであり、若き外科医が苦慮してきた思い出と共に、がん告知について振り返ってみた。
文献:佐々木壽英他「がん専門病院におけるがん告知の現状」がんの臨床, 45, 1027-1033, 1999.
写真 日本海に浮かぶイカ釣りの漁火
弥彦山頂から 2007年8月撮影
(令和6年8月号)