谷 久
1957年11月4日(月)Herbert von Karajan 指揮、ベルリンフィルハーモニーオーケストラの演奏会がありました。一般のチケット売り出しではこれが初日のはずですが、11月3日にNHKの旧コンサートホールでラジオ、TVの録音、録画が行われたようです。
チケット発売日に朝4時国電の始発で日比谷公会堂に行きました。既に多くの人達がシュラーフザックで横になったり、屋台のラーメンを食べたりして待っていました。
カラヤン氏の来日はこれが二度目で、最初は1954年単身で来日、N響を指揮しその優秀さと聴衆の質をも認めてくれたようで、以後10数回来日しています。
来日発表当初の最初の演奏プログラムでは第一日目にブラームスの交響曲第一番と第四番となっていましたが、あまりの反響の大きさにビックリしたか、まもなく変更となってしまいました。
それでも当日のワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ:前奏曲と愛の死」が素晴らしく、帰ってからすぐにvon Karajan 指揮、ベルリンフィルのLPを買い、今でもよく聴いています。
演奏会当日の中休み休憩時間に、正面二階ロビーをブラブラと歩き回りました。その中程で何気なく通り過ぎてからハテと振り返りビックリしました。
皇太子殿下(現上皇陛下)と清宮内親王(現島津貴子さん)、それに安倍能成氏(貴族院議員、文部大臣、学習院院長等歴任)他の方々のわきを、まさに袖擦り合うもの距離を通ったのでした。
演奏会終了後に公会堂左脇の楽屋口から入れてもらい中に入るとカラヤン氏と若い日本の男女数人が歓談している部屋がすぐに見つかり、「サインお願いできますか」と当日のプログラムを差し出しましたらそこに私が雑誌の写真を自分のカメラで撮影、プリントした写真が挟んであったのです(写真1、2)。それを見て女性の通訳兼秘書の方が「どこで撮ったの」と言いますと、カラヤン氏も殆ど間をおかず「ドコデ撮ツタノ」とおっしゃったのでした。
当日は日本のプリンスとプリンセス、それに文部大臣等々おいでになり、多分演奏もうまくいきカラヤン氏のご機嫌もたいへん良く、プログラムへ二箇所(写真3、4)とチケットにもサインして下さいました。
最後に「Danke schoen, Maestoro von Karajan」と言いましたらニッコリと1~2回頷いてくれたようでした。
PS:
Herbert von Karajan:1908年4月5日オーストリア−ハンガリー帝国ザルツブルク生まれ。出生名はHeribert Ritter von Karajan。1919年同帝国の終結で爵位も廃止。公式名もヘリベルト カラヤン。カラヤン自身が芸術家名としてHerbert von Karajan を主張し認められたとのこと。
アメリカのレコード総合カタログ誌『Schwann』でも見出し名は「K」の項に無く「v」の項に出ています。
写真1
写真2
写真3
写真4
(令和6年9月号)