佐々木 壽英
「ふと目をあげると、視野いっぱいにあかとんぼがいた。それがいずれも雌雄のつがいである。とにかく数えきれぬ群の赤とんぼはみな二人連れだ。独り者は全くいない。そしてこの二人連れの群は西から東へとすすんでいる。」これは加島祥造氏による「伊那谷の老子」の中の一文である。
ずいぶん昔の1972年(昭和46年)頃、私はこれと全く同じ光景を目にしたことがある。初秋の風のない朝、関屋浜での出来事であった。
海を眺めていると、目の前を右から左へと無数のトンボが飛んでいるのが目に入ってきた。よく見ると、全てのトンボが「つがい」であることに気が付いた。トンボは整然と幾重もの隊列を組んで同じ間隔、同じ速度で、海岸線に平行に途切れることもなく飛んでいた。
この無数の連結トンボ達は、何処に集まって、どのようにしてパートナーと結ばれ、誰の指令でどこを目指しているのか。そんな疑問を抱きながら、茫然とこの飛翔行列に見入っていた。
何万もの連結トンボの大移動は角田山山麓の佐潟、上堰潟や仁個堤などで産卵するために先を急いでいたのであろうか。50年も前のことながら、昨日の出来事のように連結アキアカネの大群が目の前に浮かんでくる。
そこでトンボの本を色々調べてみたが、アキアカネの大移動についての記載はあるが、連結大移動についての記述を発見することはできなかった。現在のところ、加島氏による記載と私が関屋浜で見た連結大移動だけである。これは極めて稀な現象なのか、誰も細かなことに注意しないで見ていただけなのか不思議である。
気が付いてみると、最近はアキアカネを見ることも少なくなってきた。それは殺虫剤フィプロニルが水田に散布されたのが大きな要因とされている。フィプロニルはアキアカネの幼虫であるヤゴの脱皮を阻害し、幼虫の致死率を上げ、致命的な影響を与えていると報告されている。
フィプロニルは1987年にフランスで開発され、神経伝達物質GABAの作用を阻害し神経伝達を遮断することで、広範囲の昆虫に対し殺虫効果を持つことが分かった。1993年までに世界の60作物、2500以上の害虫に効果があったと評価された。ミツバチの蜂群崩壊症候群の原因仮説の一つとも見なされている。
2008年に特許保護期間が切れ、後発薬品が流通してきた。2013年以降、欧州連合でのみ農薬使用が禁止された。しかし、日本では、水稲用、園芸用害虫剤として後発薬のフィプロニルが使用されてきた。稲の育苗箱に用いられているフィプロニルが田植え機によって苗と一緒に水田に埋め込まれ、そのためにアキアカネのヤゴが激減した。国内の半数の県でアキアカネは1/1000にまで激減したといわれている。
連結アキアカネは二匹でホバーリングしながら、後方の地味な色のメスが水中に産卵するため、先頭にいるのは胴体が赤いオスである。
日本は高齢化で、山間部の水田も減少しており、秋の象徴ともみなされてきた赤とんぼとともに日本の原風景が失われようとしている。
連結アキアカネの産卵
(令和6年9月号)