田村 紀子
昨今「昭和だね~」は「昔」の代名詞のように使われますが、本当に昭和ははるか昔になった気がします。私の古い記憶は小学校入学前の数年間ではありますが、とても懐かしいです。自宅前の道路はまだ舗装されておらず、荷を積んだ馬が通っていました。カッポカッポと蹄の音がして、馬子が馬を引いていきました。通った後には馬糞が落ちていたものです。近くの小川にはメダカやタニシがいて、子供たちは裸足になって川に入り、遊んだものでした。夏には田んぼにたくさんのホタルが飛んでいて、夜の稲穂を照らしていました。また当時、味噌はどこでも自家製が普通で、実家も自宅裏の畑で収穫した大豆を用い、味噌作りしていました。さや付きの枝を、立てかけた板に打ち付け、大豆を落とし、枝や豆殻はお風呂や竈にくべられました。無駄なものは一つもありません。大豆は大鍋で煮て、柔らかくなった豆をパスタマシンのような器具に通してつぶします。細長くペースト状になった大豆は、大きな樽に入れられ、塩や麹と混ぜ合わせ、発酵させるのです。樽に入れる前の大豆は団子状にまとめると「味噌餅」といって、香ばしく、おいしいおやつになりました。味噌作りの日、子供たちはおなか一杯に味噌餅を食べました。大豆を煮ると、とても良いに匂いがあたりに広がるため、味噌作り中のお宅はすぐにわかりました。祖母は「旅の人がきたら味噌餅は分けてあげるものだよ」と言っていました。旅人は来ませんでしたが、時々虚無僧が来ました。虚無僧はチリンチリンと鈴を鳴らし、玄関先で低い声でお経を唱えるのです。虚無僧がやってくると祖母は、お米を僧の頭陀袋に入れて、合掌していました。私は虚無僧のいでたちが怖くて、祖母の後ろに隠れていましたが「修行をなさっているんだよ」とのことでした。また祖母には小豆入りのお手玉や綿入れ(冬用のちゃんちゃんこ)、羽織、浴衣、祭りの着物などいろいろ作ってもらいました。近所に小さな反物屋さんがあって、かわいい反物を一緒に見に行くのも楽しみでした。せっかく日本に生まれたのだから、何か昔の手仕事をやってみたいと思うこともありますが、何もできないまま祖母の年代になってしまいました。祖母はあちらの世界で、やれやれと溜息をついているような気がします。
(令和6年10月号)