植木 秀任
「老いるショック」とは、思わぬところで自分の老いを突きつけられてショックを受けることで、クリエーターのみうらじゅん氏の造語であるらしい。私は今年72歳になる。40代の頃、尊敬していた先輩の診療所が近くにあるのに「あそこはじいちゃんだから」と言ってうちに来た患者がいた。非常に知識豊富で信頼できる先生であるのに、年齢だけを見てそんな判断をする患者がいるのかとそのことが心に暗く残った。以来見かけだけは年寄りくさくならぬよう気を使ってきたつもりだった。
先日、バスで席を譲られた。古町での例会からの帰り。その日はすごい土砂降りでおまけに前日から腰を痛めていた。歩いて帰るのを諦めてバスに乗った。酔いと腰痛でバスの揺れにふらついていると私の前に座っていた青年がすくっと立って「どうぞ」と私に席を譲るではないか。「えっ?俺?!」その時のショックと屈辱感。この俺が席を譲りたくなるような老人に見えたのか?ともあれその場は礼を言って青年の好意に従った。バスを降りて考えた。あそこでふらついたのはマズかった。大型犬を飼っていた頃は毎日一緒に信濃川堤防を走っていたのに、10年前に彼がいなくなってからは走るのも毎日でなくなり。今では転倒や車が危ないからと家人からジム通いにされてしまった。しかしジムのトレッドミルは単調で、長くは走れない。それで足の衰えが来たのか?
家に帰って妻にバスのことを愚痴ると「そもそも孫に『ジイジ』って呼ばれているんだから爺さんじゃないの」と言われた。そばから娘も言う。「パパくらいの年代のクライアントで、いつもイケオジ風の格好している人がこの間アクセルとブレーキを踏み間違えてバンパーが外れて落ち込んでたのよ。あんな間違いするかって笑ってたのに」だんだん認知の方まで取り沙汰される雰囲気になってしまった。
考えてみれば、診療でも近頃何かとこらえ性が無くなって、話のややこしい患者はすぐにスタッフへと振ってしまうし、専門外の患者が来ると以前ならとりあえず診てからどうするか決めていたのに、今では電話口や受付で他院へ行くようにと門前払いをするようになった。外見だけでなく、そんなところが患者には年をとって誠意がなくなった、診断力が落ちたと感じさせるのではないか?いつの間にか「じいちゃんだから」の原因を自分が作っている。
腰痛も癒えたある日、久々にジムへ出掛けた。トレーニングを始めようとしてふと考えた。こんな生ぬるいことをしているから思わぬところで老いが顔を出すのだ。筋トレの負荷をいつもより2~3段階ほど増やした。ランニングも速度を速めて喘ぎながら長めに走った。その日は疲労困憊で、就眠後に朝早く目が覚めることもなかった。翌朝、布団から身を起こそうとして腰から臀部にかけてズキッとした痛みが走った。「あ、ヤバい…」
「痛ででで…」と言いながら朝食の席につく私と、事情を聞いた家族が口々に同じ言葉を私に浴びせた。「年寄りの冷や水!」