海津 省三
甲斐の国に武田信玄の菩提寺でもある恵林寺がある。この寺は織田信長によって火攻にされた時『心頭滅却すれば火も自ずから涼し』と唱えながら泰然と死んで行った快川和尚が居た事でも有名であるが、そこまで究極の境地に達していたのであれば大概の事で怖いものはない。生前の或る日、信玄が禅問答のつもりで快川和尚の顔に大刀の切っ先を突き付けた時「一国の大将たる者が無闇やたらに大刀を振り廻すものではない」と諫めながら自らの手の甲でその切っ先を静かに払い除けた。その為かどうかわからぬが、謙信とは対照的に信玄は戦場でも余り刀を抜くことはしなかったらしい。武田軍の旗印『風林火山』は快川和尚の創作とされている。しかしこれには既に出典があり、中国春秋戦国時代に生きた孔子と同時代の人物である孫子の兵法書に記載がある。
上杉謙信が弘治二年(1556年)十月に上州に出陣の際に白井城主である長尾憲景より贈られ たと伝えられている『山鳥毛』の太刀は刀紋に山鳥の毛の様な紋様があり、窯変天目茶碗と同じく現在ではなかなか造れる太刀ではないが、備前一文家の作とされている。銘はない。昭和十五年国宝に指定されて第二次世界大戦後は上杉家から離れて岡山県の個人の所有になっているらしい。因みに十年位前になるが、その刀が売りに出された時、上越市が四億円を提示したが断わられた経緯があった。それなら幾ら位なら売るのかと、私の憶測ではあるが所有者は十億円を考えているのではないかと思っている。写真で見ると山鳥毛の太刀の根元に近い刃が三角状に欠けている。これも色々憶測を呼ぶのであるが、謙信が信玄に切りつけた時に出来た傷でない事は確かである。何故かと云うと、いくら先陣を切って衝き進む謙信でもこんな髙価な太刀を戦場で振り廻していたとは到底考えられない。それに川中島の合戦で信玄に太刀向ったかどうかも怪しくて、後世の江戸時代の人達が作ったと云う説さえある。
吉田兼好以来の評論家と云われている小林秀雄が本物の良寛の真筆と思って床の間に掛けていた詩軸をある晩良寛の研究家で専門家でもある友人にその書を見せたら、偽物だと云われてカッとなって部屋の傍にあった越後の一文字助光の名刀でバッサリ切り、バラバラにして庭に投げ捨てたと云う文章がある。良寛の書が日本のトップクラスの文化人の垂涎の的であるとは若い時代に全くわかっていないのは致し方ない。
髙校三年生の時に何故か良寛が住んでいたことで有名な国上山へ学校のバス旅行で連れてゆかれたが、私自身余り面白いと思っていなかった。担任の先生も歴史が専門で相当に教養のある文化人と私も認めていたが、その先生が庵の前の広場でみかん箱の様な台の上に立ち、少々興奮気味に「先日良寛の扇面の書が三百万円で売りに出たが、とても髙くて手が出なかったんだ。友人があれは偽物だからやめておけと云われたがやっぱり本物だと思う」と、突然とんでもない事を言い出した。良寛と云えば一日中近所の小供達と手鞠をついて遊んでいるイメージしかなかったが、大人の文化人になると眼の色を変えさせる何かがあるんだなと考えたが、髙校三年生では大学進学のことしか頭にないのだから理解に苦しむのは当然である。後になって余裕が出た時に京都大学哲学科卒の良寛研究家で評論家でもある唐木順三が「年をとったらあそこだ」と良寛のことを書いている。因みに彼は髙校生の頃から良寛に興味があったそうだから、私とはそもそも次元が違う。
八十五才になった自分には大刀もないし、それを振り廻す相手もいない。良寛の様に和歌を詠んだり漢詩を作ったりして優雅な生活を送っておれと云われても多様性に充ちた現代の世の中では無理な事であり、唯『心頭滅却─』をその覚悟が全く出来てなくとも口では簡単に唱える事は出来る。
追記になるが、上杉謙信所有の『山鳥毛』の大刀が個人所有から岡山県瀬戸内市に5億1千万円で移行したと伝えられている。それ位なら新潟市でも良いのではと思うが、これがもし田中角栄に頼める時代であるならばすべて解決することなのだが、はなはだ残念なことである。