海津 省三
もう六十五年以上前になるが、髙校三年生になって初めて新潟大学医学部を受験してみようと思った。医学部受験の状況等は全く知識になく、家庭の経済的理由もあってそれ以前は大学へ進学することすら考えてもいなかった。両親が医学部受験に熱心でないし、それこそ私立医学部なんてことになったらとんでもない惨事になること必定である。そんな準備不足でいて冷静に考えてみれば無理なのだが、生まれつき楽観的な性格のせいか、軽く入れるものだと思っていた。髙校の先生方も普通に勉強していれば合格だぞと云ってくれていた。
受験会場で隣に坐っていた人とは少し言葉を交わすことがあった。それによると彼は慶應義塾大医学部を受けてから滑り止めに新大医学部を受けに来たのだそうで、田舎者には眩しく思えたし、これでは何となくまずいんじゃないかと思って可成り弱気になってしまった。しかしこの出合いは究極の一期一会であり、結果的にはその受験生は慶應へ行ったのだと思う。この年になってもう一度どうしているのか会ってみたいものだ。合格発表の日に少し遅れて見に行ったので周りに既に誰も居なかった。その頃は受験番号と名前が一緒に書き出されており、本来あるべき私の名前はなく前後の合格者の名前だけを空しく顔を上げてしばらく見ていた。不合格だ。小雨が顔を濡らした。そう云うことだったのかと納得するに素早い私の顔に涙はなかった。何とかなるだろうと思う気持と、これからどうして良いのかわからない戸惑を持って、欲しかった三百万円の扇面の書を残念ながら買えなかった担任の先生の自宅を訪れた。大学と先生の自宅は歩いても二十分位の距離しかないので黙って自分の家に帰るのは無理がある。今思えば教師も因果な仕事であって、良いことばかりではない。試験の結果を報告すると「残念だったな。来年頑張れよ」私は「はい頑張ります」とこんな型通りな返事しか出来なかった。その時は先生の家に上がる気はしなかった。
突然学校に行かなくても良くなると今度はかえって落付かなくなり、今は鳥屋野潟のほとりに移転した白山公園近くの県立図書館に行ってみた。そこに偶然同じ大学の理学部を不合格になった髙校時代の同級生が来ており、お互いまだとても受験勉強が手に付かない同志で図書館を出て白山公園のベンチに腰を掛け「これからどうするー」と溜め息まじりで同じ言葉が出た。公園には梅の花もチラホラ咲いているのだが、そんなものには一向に眼に入らぬうわの空でその友人の家へ不合格者同士で訪れ世間話をして時間を過ごした。髙校生活はただ授業を受けて帰って来るだけだったが、浪人をすることで友達の為人やその家族の必死に働く姿を目の当たりにする良い機会でもあった。ある同級生の家は焼鳥屋さんで、その頃は炭や練炭を火力にしているので顔や仕事着を黒く働く様子を見て、働くと云うことがどうゆうことなのかしっかり教えられた。
或る日髙校の担任から、その当時未だ私の自宅に電話と云う贅沢品はなかったので近所の家の呼び出し電話で連絡があり、同じ髙校の三年生の男子生徒の家庭教師をやらないか。とのことであった。浪人時代の自分には自らの勉強も儘ならないのに大丈夫かと思ったが、担任のおっしゃることは絶対とは云わないまでもそれに近い間柄だったし、家庭の経済状態も考えて下さっておるのだからと、快く引き受けることにした。場所は市内イタリア軒の斜めむかいで、老舗の料亭や所謂芸者の置屋もある街の一角の金辰さんだった。その店の女将さんの長男が来年新大を受験したいので数学だけを週二回夕方七時から九時まで教えることになった。場所は料亭では落付かないからと、そこから少し歩いた別宅の二階の一室でやることになった。それまでは滅多に脚を踏みいれる事のない処なので夕方その界隈を堂々と歩けることに少々気分が良いのとうらはらに気恥しさもあった。授業をやる家の隣が公衆浴場で風呂桶のカタコト云う音やザブーンと云う水の音もしたが、小供の頃はお風呂屋に入りに行っていたから珍しくなかった。遠くで三味線を爪弾く音色は今までの日常とは全く違うものだった。特に若いのか年増なのか不明な白粉の厚化粧した芸者のお姉さんに夕方外で会うのは、黒い詰め襟の学生服を着た者には可成り後めたさを感じていた。もし以上の諸事情もなく夕方その辺をうろうろ歩いていたら挙動不審な学生と思われても仕方がない。時には都々逸や小歌を謡っている声も流れて来て、しばらく立ち止まって聞いていることもあった。「朝顔は可哀想だよ。根の無い竹に絡み付く」等々。
数学を教えていた別宅の近くに『飛鳥』と看板の出ていた一杯飲み屋さん風の店があり、何故か古今和歌集の中の「世の中は何か常なる飛鳥川 昨日の淵ぞ今日の瀬となる」を思い出した。週二回その界隈を歩いている内に、いつも同じ夕方の時間にお座敷に向かう正装した二人の芸者さんと擦れ違うことが多かった。一人は首のあたりまで白塗りで表情が良く読み摂れず印象は薄いが、もう一人は素肌に自信があるのか薄化粧のお姉さんで、その頃若い女性を見るとすべて美人に思えた私でも宝塚の生徒さんの中に良く見る様なビジュアル系の美人であった。一般的に芸者さんは鼻が程々の髙さである方がもてのだそうであるが、その点では鼻筋の通った顔は少し敬遠されるのかなとも考えていた。最初の頃は詰め襟の学生服と擦れ違う時に「クスクス」と厚化粧と薄化粧の二人で鼻で笑っていたのが、次第に慣れて来るとお互いに軽く会釈をする様になった。芸者さんも二人で歩いて来る日と薄化粧が一人で擦れ違う日のある事がわかって来た。頭の中に次第にいたずら心が芽生えて来た。その頃学生の間に本やノートをまとめて短いバンドで捲きつけて、それを肩に乗せて歩くのが流行っていた。私はまとまった本やノートの間に数学の問題が書かれた二三枚の紙をはさんで薄化粧が一人で歩いて来ると思われる日を選んで仕事に出かけた。彼女と擦れ違う前にそれとなくその薄っぺらな問題集だけを落して見せた。薄化粧がそれを拾って「落しましたよ」と微笑んで言った時、内心「ひっかかったな」思ったが「ああ、そうでしたか。有難うございます」と言ってそれを受け取っただけで後は何も言えなかった。「いいえ」と彼女も少し恥ずかしそうに返事をした。脂粉と香水の匂いだけを残してその場を去った。汗ばむ様な春の夕暮だった。遠くで琴を奏でる音が聞こえた。「春の海」だったと思う。どうも仕掛けた様な不自然な出逢いが気に入らなかったのか、それから私は彼女と顔を合わせない様に別の路地から入って仕事場に行き、帰りも同じ路地を通って古町に出た。浪人生が余計な楽しみに浸る煩わしさを避けたいと本能的に自らの立場は知っていたようだ。その後何事もなく単調な毎日が続いていた。六月に入った或る日、金辰の女将さんから「今度うちであなたと髙校の先生と一緒に御食事を招し上がって下さいよね」と勧められた。良寛の扇面の書を買い損ねた担任と一緒であるならどんな事でも引き受けられると思っていたから喜んで御受けし、その日の夕方になった。担任と二人だけの客のみの日を選んでくれたのか、貸し切りの二間続きの部屋に座らせられるのも詰襟の私には可成り窮屈なのに、今まで食べたこともない料理が次々と出て来た。じゅんさいは地元産のものだが、鮎は六月のこの時期新潟県内では解禁となっていないので特別に四国の四万十川から取り寄せたと聞いていたが、鮎だけは子供の頃から疎開先の母親の実家が山北にあり、そこで良く出されたので頭からバリバリ食べるのを女将や担任の先生に驚かれた。味は山北の鮎と変わりなかった。胡麻豆腐や二つに割った冬瓜の中に挽き肉や細かく刻んだ野菜を入れて、その上に葛のあんをかけて蒸した料理等は、それまで大根の葉を乾して最後まで捨てずに食べたり、御馳走と云えばラーメンやカレーライス位だった私には到底想像出来るものではなかった。しかし何か歯応えがなく、お酒と一緒にすーっと口の中で溶ける様に出来ているんだなと一人で合点していた。お酒は三才位の時から母親の実家の大人の悪ふざけでどぶろく(濁酒)に砂糖を少し入れたのをたまさかに飲まされていたので(その時は急に意識を失って眼を醒ました時には寒くない様にどてらがかけられおり、横を見ると囲炉裏の火がチロチロ燃えていた)結構飲めた方だったが、担任の手前私は未成年なので遠慮した。最後の圧巻は生きた鮑を1cm位の厚さに斜めに切ってその上に雲丹を載せ、ワカメでくるんで二時間程大根と煮込んで最後に醤油で味付けし、それを鮑の殻に戻すと更にその上に卵白をつなぎにしたぶ厚い塩の蓋をして炭火で焼くと磯の香りに包まれて、塩の蓋をとり除きワカメを開くと中味が飛び出して来る趣向になっているのだと、女将さんの長い説明があった。その他スズキや夏ブリと云われるヒラマサの刺し身も出て、食事が終るか終らない頃合を見計らった様に一人の芸者さんがすっと廊下との境の襖戸を引いて入って来た。「今晩わ。菊奴です。よろしゅうにお願いします」と顔を挙げた時に私は「ああーっ」と少し低く唸った。担任が「君この人を知っているのか」と言われたと同時に薄化粧の菊奴姉さんが「この間道でお逢いしたばかりなんです」と答えた。私は「そう。それだけなんです」と無難に逃げた。すかさず担任は「世間は狭いね。悪いことは出来ないよ」とおっしゃったが、私は何も悪いことはしていない。いや、数学の問題用紙を落としたのが悪いことなのか、はたまた浪人の分際で芸者さんと知りあいになる事がいけないのか。とか訳のわからぬ数日前の出来事が頭を駆け巡った。菊奴姉さんには女将さんから担任と私の紹介があり、今日は特別だからと女将が三味を弾き彼女が舞を披露することになった。髪型は銀杏返しで、髪飾りの脇に稲穂が一房刺されているのが印象的であり、京縫い刺繍の額紫陽花が描かれた帯と、菊と桐の花をとり合わせた所謂菊桐模様の付けさげで足袋を穿いた足が隠れる程に裾長の着物であった。「こんな着物じゃ外に出て歩く時裾が汚れるんじゃないの」と素朴な質問をすると「片手で着物をたくし挙げて歩くから大丈夫」と面倒がらずに教えてくれた。因みに左手で着物をたくし挙げるのを『左褄を取る』と云って芸者さんの代名詞にもなっている。そう云えば芸者さんが外を歩く時髙下駄を履いて左褄を取っている姿は良く見かける。女将さんが「いつもは新潟甚句や佐渡おけさなんかをやるんですが皆さん地元の方々ですし、月並みだからそれはやめて、『明治一代女』と『隅田川』をやらせていただきます。一度これをやりたかったんですよ」と嬉しそうに心意気の籠った前触をされた。明治一代女「浮いた浮いたの浜町河岸に浮かれ柳の恥ずかしやー、人眼忍んで小舟を出せばすねた夜風が邪魔をする。恨みますまいこの世の事は仕掛け花火に似た命、ドンと揚がれば舞台は変る。まして女はなおさらに」や「銀杏返しに黒繻子掛けて、泣いて別れた隅田川…」と世の無常や人生の別れを謡うものは飛鳥川と同じ心情が出ていた。女将さんも声に自信があったらしく三味の音と伴に唱ってくれた。関西の女優だった野川由美子に似た二十五六の菊奴姉さんがすっと立って斜に構えて扇を開き、それを前につき出してこちらの方をじっと見ている視線に耐えられない私は、可成り近くで舞っている彼女の裾が斜めに割れて見える裏地と白足袋の見え隠れする動きだけをぼんやり見ていた。人形が何故か雪の舞台で舞う姿が頭の中で次第に美化されてゆくのに任せていたのであろう。舞が終った時私は静かに詰襟の学生服を脱いでそっと脇に置いた。暑く感じた。外の雨が止んで音がしなくなった。今ここに居ることすら不思議であり可成り後めたい気持ちが戻って来た。唄い終った女将さんが三味線を持って下に降りて行かれた。担任と私と菊奴と三人で雑談になった。彼女が我々二人のお客の関係を聞き、着ている付け下げが菊と桐の花の絵柄なので秋と春の両用であるとか、日本髪は鬘ではなく全部自分の頭髪である事もわかった。担任の先生に自宅から電話があり下に降りて行かれた時、透かさず菊奴姉さんが私に顔を近づけ手を軽く握って「今晩十一時になったら、いつもあなたが通る道に飛鳥って店があるでしょう。そこに来てね。屹度よ」と耳元で囁いた。既に舞う博多人形にすっかり魂を抜かれた私が「これから勉強がありますから帰ります」等と白々しいことを言える訳もなく、女将さんが二階に上がって来られ、先生がお帰りになったので私と菊奴姉さんは金辰さんをおいとました。来る時は雨が降っていた空がすっかり晴れて路地の間から星が見えた。十一時まで未だ二時間以上あったが古町通りの賑わいも景色も眼に入らぬ骨のないくらげの如くにただどことなく彷徨っているうちに約束の時間が来て『飛鳥』の店に吸い込まれた。初めて入った店は良くある所謂「バー」と云われる飲み屋さんで、もうカンバンなので女の従業員が一人帰り仕度をしていた。菊奴姉さんの日本髪はそのままで髪飾りや稲穂は取られており、着物は薄紅色のこまかい谷卯木の花が描かれた江戸小紋で、帯は光琳風のあやめに変わっていた。「ビール飲めるんでしょう」と言われて私は素直に頷いた。彼女がビールを注ぎながら「実は今日あなたに御足労願ったのは、他でもない私の姉の子供の女子中学生に勉強を教えて欲しいのよ。忙しいのは重々わかっているわ。週一回でもいいのよ。お願い」そう云うことだったのかとすぐに納得した。私がこの状況で彼女に抗える筈もない。「今日はここに居ないけど、いつもこの店の二階の部屋に私と住んでいるのよ。課目は決めないで、わからないことがあったら聞くと云うことにしたらどうかしらねえ。あなたの担任の先生には内緒にしておくからお願い」随分と買い被られたものだ。自分にそんな能力があるかと思い出すと、最初旨かったビールが注がれる度に苦くなって来た。又内緒事が増えた。飛鳥の二階に古びた昔風の階段を登ると直ぐの部屋が八帖程あり、その左側が台所で右側が六帖位の部屋で今度教えることになった女子中学生の勉強部屋になっていた。菊奴の部屋は和服が衣紋掛けに下がっており、三味線や琴が立て掛けてあった。いつぞやわざと数学の問題集の一部落して見せた日に聞いた琴の音は中学生が弾いていた「春の海」だったことをその時初めて教えられた。大きな三面鏡の化粧台の上には髪飾りや化粧品がずらりと並んでいるしお金まで置いてあった。雑多な女の臭いが漂う正に男が入ってはいけない部屋である。
中学生は三年生で来年公立髙校を受験する準備中とのことで、私もうかうかしておれる立場にない。彼女の部屋は綺麗に片付いていたし、座り机が一つ部屋の隅に置いてあり、そこで全課目の質問を受けた。彼女が一番苦手とする課目を聞くと国語の古典だと云う。それは一般的に云えることで、過去五年位の公立入試問題を調べて見ると必ず一問古典の説話が出ており、落語のように落があるような問題ばかりであるので、古本屋をまわったり図書館で古今著聞集や宇治拾遺物語の中の説話等を百ヶ位掻き集めて来た。私がその口語訳の話を読んで聞かせると同時に最後の大切な落をしっかり憶えるよ うに頼んだ。はたしてこんなやり方で効果が出るものかと疑問だったが、百ヶの試験問題は自分自身の為でもあると思いながら二三回間を置いて繰り返した。しばらくして彼女から先日の学内での試験で同じような問題が出たが、良くわかったと嬉しそうに話した。若さゆえの吸収の良さに驚くばかりである。国語全体がだんだん好きになって来たとも云っていた。
しばらくして古町の市役所前で、担任の先生と偶然出会った。先生がその辺の喫茶店で話しをしようと連れてゆかれた。内緒にしていた中学生の家庭教師の仕事がばれてしまっていた。小言は云われたが、そもそも金辰さんの家庭教師の仕事を持って来てくれたのは先生の方なので、私自身の為を思って云ってくれているんだと思い先生のおっしゃることを素直に受け入れた。今思うにこうゆう教師が少なくなった。教師である前に人間であらねばならないのだが、人間性は生まれつきもあって、実はこれが一番難しい課題である。秋に入って間もなく家庭教師の仕事はすべておいとまして自分自身の勉強の為予備校に向かった。
(令和7年7月号)