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新潟市医師会報より

新潟市医師会

あっと驚く“新幕末史”

阿部 志郎

1867年、徳川慶喜が二条城で天皇に政権を返上する大政奉還を行った。

翌年の1868年、薩摩・長州中心の新政府と旧幕府勢との争いが鳥羽・伏見で勃発した。

1868年1月27日に始まり1年5か月続いた戊辰戦争である。

戊辰戦争はただの内戦ではない。本質的には世界と結びついた近代戦争だった。

伏見の戦場跡を検証すると、幕府軍がフランスの最新式大砲“四斤山砲”を使用していた。

幕府はフランスの軍事顧問団の支援と武器の供与を受けていた。

イギリスは旧幕府を見限り新政府の支援に廻り、ビクトリア女王は日本の政府と承認した。

1868年2月16日:イギリスの駐日特命全権公使ハリー・パークスは、フランス・アメリカ・プロイセン・オランダ・イタリアの大使を集めて協議の場を設けた。

彼は国際法に基づく局外中立(内戦国に武器援助の禁止)を提案したが、難色を示された。

内戦で幕府が横浜・函館港、新政府が神戸・長崎港と日本の開港地(貿易を許された港)が分断されたので、各国が敵・味方で戦えば大使として自国民の保護を果たせぬと指摘し、全会一致の賛成を得た。この情勢で徳川慶喜は新政府への恭順を決意し1868年5月、新政府軍の西郷隆盛は江戸城を無血開城した。一方、新潟や東北の諸藩が奥羽越列藩同盟を立ちあげ、明治天皇に繋がる皇族・公現入道親王を擁立した地方政権へと変貌し対抗した。

そこで、イギリスに出遅れた他の国々が動き始める。

プロイセン代理行使・マックス・フォン・ブラントが旧幕府より撤退したフランスに代わり奥羽越列藩同盟(東北諸藩)に武器の供与を始めた。局外中立で国として武器援助は出来ないので、個人の商売が認められている武器商人をさしむけた。

オランダを伴い新潟港を開港地とした結果、新潟に武器商人がどっと押し寄せた。

背景には3年前に終結したアメリカ南北戦争で新型ライフルが大量に余り、転売先が内戦の日本であった。新潟港では各々の武器商人が5千丁も扱ったとも言われている。

新政府軍は北陸道を進軍し、越後の長岡藩に軍資金3万両で恭順か、敵対かを迫った。

長岡藩の家老上席・軍事総督として全権を任されていた河井継之助は武装中立を宣言する。

予め、一台・3千両もする最新鋭のガトリング砲(200発/分の機関銃)を2台(国内に3台のみ)横浜で購入しており、強力な武装で威嚇したうえで中立を図るつもりだった。

河井は小千谷の慈眼寺で新政府代表と直接交渉するが、嘆願書すら受理されず決裂する。

1868年5月10日、長岡軍1300人、新政府軍4000人が信濃川を挟み撃ちあいとなり北越戦争が勃発した。長岡軍はガトリング砲で応戦するが大砲の物量攻撃に争いきれず一日で落城。2か月のち本能的反抗心でゲリラ戦のすえ執念の長岡城奪還に成功するが、新政府3万人の大軍に大敗し長岡の城下町は壊滅する。河井は足を負傷し軍の士気は落ち敗走した。国境八十里越を過ぎ、会津藩・只見の塩沢村にて敗血症で亡くなった。

長岡藩の郡奉行に抜擢され危機的な経済状況から米の増産、灌漑用水の整備、信濃川の治水、自由経済の奨励など藩の財政を潤し藩民の生活を豊かにと心血を注いだ人物とは思えない破滅的な無謀行動であった。八十里/こしぬけ武士の/越す峠…河井の自嘲の句である。

脳科学者・中野信子氏は“男性は強力な武器を所持しているだけで、攻撃性を高めるテストステロン(男性ホルモン)値が場合によっては100倍にも増える。それを防ぐ安全装置が必要だ”と証言する。本能が強く覚醒されると、高度な理性が退くと警鐘している。

話をもとに戻そう。

プロイセンの代理公使として任命されていたブラントは蝦夷の調査をしていた。蝦夷地は北ドイツと似た気候でジャガイモ、トウモロコシ等が栽培可能であり、植民地にふさわしい土地だと宰相・ビスマルクに報告した。これは国内の記録にはないが、ドイツの機密文書の開示により明らかになった。当時、プロイセンはヨーロッパ諸国では出遅れており、植民地を得る絶好のチャンスとなった。

手法としては…ブラントの元通訳ハインリッヒ・シュネルを通じて、徳川幕府から東北諸藩に蝦夷地開墾・警備に割りふられた土地の利権を持つ諸藩に対し、戦乱で財政難に陥った状況に乗じて軍資金を貸与し、代償として99年間土地を借りうける計画だった。

日本は遠方のため、宰相・ビスマルクはブラントに交渉の権限を与え実行を指示した。

プロイセンによる新潟港での武器商人の武器取引を阻止するため、イギリスはパークスの部下で駐日外交官アーネスト・サトウに新潟港海上封鎖を新政府の西郷隆盛へ指示させた。

海上封鎖は国際法上認められた権利であり、他国の批判を恐れる必要はないと進言した。

1868年9月、新政府は電撃的な新潟港への上陸作戦を決行し封鎖した。

新潟港の列藩同盟部隊は壊滅し、11月6日に会津藩も降伏した。

やがて東北全土の藩が降伏し、プロイセンの植民地計画は歴史の闇に消えていった。

舞台は函館に移る。

榎本武揚は旧幕府軍艦隊・開陽丸(幕府購入の砲台を備えたオランダ軍艦)を率いて函館・五稜郭を占領。新政府の艦隊も函館に集結する。

イギリスのパークスは、世界的規模で南下政策を推進するロシア勢力と外交術に長けた榎本武揚が手を結べば一大勢力になることを恐れた。

彼は横浜港に停泊中のアメリカの新型不沈艦ストーンウォール(開陽丸を凌ぐ)を新政府の主力艦隊として供与し対抗することにした。

1869年1月18日:パークスは各国代表を集めた会議で“局外中立”を外す案を提出。

プロイセンは“まだ榎本武揚が抗戦しているのでそれは外せない”と反論した。

パークスは“幕府は既に降伏しているので家臣も降伏すべきだ。彼等は反乱分子に過ぎず、もはや内戦ではない”と主張した。各国は賛同し、新政府が唯一の合法国家としたイギリスにより“局外中立”は撤廃された。1869年6月、ストーンウォールを主力とする新政府軍の艦隊にイギリス人も乗り込み、各国は堂々と新政府への支援が可能になった。

6月27日、函館沖の海戦で榎本武揚は新政府軍の圧倒的な艦隊により降伏し、“薩長に敗北したのではなく、イギリスに敗北したのだ”と心境を語った。

彼は戊辰戦争の裏舞台までも、知り尽くしていたのだろうか?

地上戦の奥羽越列藩同盟は壊滅しており、ここに戊辰戦争は1年5か月で終結した。

“新幕末史の真相を知って驚いた”

戊辰戦争勃発後、イギリスのビクトリア女王は天皇に新政府承認の手紙を送っていた。

イギリスは自国にとって有益なパートナーを探しており、幕府は国内外に多くの問題を抱えているため、自由な貿易に協力しそうな薩長による政権交代が好ましいと考えていた。

イギリスの特命全権公使ハリー・パークスは“新政府を反乱勢力、旧幕府を日本政府”の状態を内戦とし、幕末の動乱に国際法による“局外中立”を適用して、各国の軍事的な関与を排除した。プロイセンによる新潟港への武器商人の武器援助には、国際法に認められた海上封鎖の手段で新潟港に集まった列藩同盟隊を駆逐している。

このようにパークスは国際法の解釈を巧みに駆使し、新政府を勝利へと導いている。

東北諸藩を壊滅させ、残る榎本武揚の艦隊を追い込むため“新政府に恭順した旧幕府の家臣は反乱分子に過ぎず、新政府こそが唯一の合法国家”として局外中立を撤廃させる。

最後の函館沖の海戦では、アメリカの最新鋭の無敵艦隊ストーンウォールを駆使しイギリス人も参戦し勝利した。彼の巧妙な国際法を駆使した手法は、策士の名に相応しい。

日本史に登場する幕末の英傑もさることながら、ハリー・パークスは強大な諸外国の介入や脅威から日本を防御し、新政府を勝利に導いた裏舞台での素晴らしい功労者である。

世界史の観点から見た日本史に於いて、高く評価すべき人物に思えた。

2022年放送、NHKスペシャル「新・幕末史 グローバル・ヒストリー 戊辰戦争 欧米列強の野望(第2集 戊辰戦争 狙われた日本)」、NHK「英雄たちの選択:不可能への挑戦~河井継之助の北越戦争」の番組を見て、率直な感想を述べてみました。

(令和7年8月号)

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