谷 久
40歳で開業(昭和52年、1977)。
新潟高校64期の同級会で青山木曜会(同級生の木曜は休んでゴルフをしようという同好会、皆、俺お前の間柄で実に楽しい会でした)へのお誘いを受け、参加することにしました。コンペが終わると次の会を決めるという2~3ヶ月に1回のかなり不定期な会でした。その他日曜日には、紫雲月例、新潟メディカル、西蒲メディカル、YY会、ST会、青山東海対抗戦(新潟高校と名古屋の名門東海高校のフルバックから打とうというゴルフ大会、皆の腕前を聞いたら開いた口が塞がらないような会で、夜の表彰式も到着順に飲み始めるという楽しい会でした)。その他沢山の会がありました。開業数年で仕事も大分落ち着いてきたし税制改定等もあり思い切って木曜日も休診にしてしまいました。そして紫雲へ3月初めに、正月、GW、お盆そのほか用のある日以外の全木曜日の10時からを私と家内2人の名前で予約。紫雲メンバーで希望する人がいたら入ってもいいと言っておきましたら、JALの新潟支店長畠中さん、この方は大変多趣味で音楽にも造詣深くビオラで新潟交響団にも参加しておられました。メールアドレスにもM.ラベルの名前を入れるほどの方でした。私が80才で年賀状中止の案内を出すまで年賀状とメールのお付き合い頂きました。
またNHKの新潟チーフアナウンサーだった大橋さん、内科横山先生、同級生の石川(耳)、清野(脳外)などの人達と日曜日、時には休みが取れると木曜日に一緒にプレイを楽しみました。そのうち新潟大学医学部検査診断学教室教授屋形稔先生が定年退職され2~3年間毎週のように参加してくださいました。家内と1~2打差を争い楽しそうに、ときには真剣にプレイされていた姿が思い出されます。先生は紫雲の役員もされていてその後任にどうかと打診されました。私はその頃イーストヒルGCの競技委員、妙高サンシャインGCの5人の理事の1人でもありましたし、屋形先生の後任の岡田先生のご親戚に紫雲のメンバーが多数おられますから、そちらへお話をされるとお喜びになると思いますと言いました。実は、岡田教授と親戚の方にお世話になる事があり、その恩返しの意味もあったのです。
妙高サンシャインGCは私の大好きなゴルフ場で、かなり昔は牧場であった所へ、その後遊園地となり、まだ小さかった子供達を連れてよく遊びに行っていました。そこへゴルフ場ができると新聞に小さな記事があり、早速車を飛ばし見に行きました。駐車場となる一角に工事事務所があり、そこへ行きましたらちょうど工事主任がいて、先ずちょっと見に行きますかとジープにのせて回ってくれました。霊峰妙高山を正面に借景とした見事な設定ですっかり気に入り、工事事務所に帰るとすぐに申込書を貰って来ました。
オープンしてみるとホテル最上階に妙高山を正面に見る大きな温泉風呂、山本総支配人、間島副支配人(当時、現総支配人)、レストランの職員等みな良い人達で新潟で一番大好きなゴルフ場になったのです。初めの頃は有料高速道路も無く国道8号線を、木曜日など左手におにぎり、右手にハンドル、助手席にスピードダウン指示専門のおかあナビ。日帰りで突っ走ったものでした。春と秋の2回月例の後、理事会がありその後競技委員会と合同で宴会、そして泊めて頂いて、家内と二人のプレイ代、宴会、宿泊ともに無料と大変な優遇ぶりでした。理事長の高橋さん(上越高助合名会社社長、上越商工会議所会頭ほか役職多数)、理事に上野さん(コシナ常務取締役)、長島さん(日本ガス工事常務取締役)他。競技委員長は高館さん(高館組顧問)。皆ゴルフも上手、酒も強く、明るい人達で、家内もプレイ、宴会等、同じ仲間に入れていただいていました。
77才頃から難聴が始まり、腰部脊柱管狭窄症もあり、長く歩くのも辛くなりそろそろゴルフをもやめる決心をする時がきたようでした。多くの立派な人達とお付き合いいただけたのもゴルフのおかげと感謝しています。
(令和7年8月号)
写真説明 1ヶ月を1枚に収まるようエクセルで設定。年間のラウンド数が多く行が増え、字が小さくなってしまいました。左から順番号、月日、スコア、会の名称、同伴競技者名他、スコアは37~41は赤、49以上は青に自動的に変換するよう設定。(20枚くらいのうちの1枚)