新津信愛病院 清水 敬三
虫の音が夜の静寂を縫う頃、診療室の灯もまた、ひとつの月となる。かつて医師の言葉は絶対であり、患者様はその光に黙して従った。パターナリズム─父性的配慮と支配の混在するこの概念は、長らく医療の根幹にあった。
しかし昨今、その灯は揺らぎを見せている。インフォームド・コンセント、患者様中心の医療、意思決定の共有。これらの潮流は、医師の「導く手」から「並び立つ肩」への変容を促している。だが、虫音のように微細な声─患者様の不安、迷い、沈黙の中の訴え─に耳を澄ませるとき、医師の役割は単なる情報提供者にとどまらない。
高齢者が「先生にお任せします」と言うとき、それは信頼か、諦念か。若者が「ネットで調べました」と告げるとき、それは主体性か、混乱か。医師はその揺らぎの中で、灯を掲げる者であり続けるべきなのかもしれない。パターナリズムの否定は、時に患者様を孤独にする。
今、私の前にいる統合失調症男性。措置症状あり。警察の介入を経ても、治療への導入が困難な状況が続いている。複数の医療機関で対応が難しく、支援の手が届きにくい現状がある。無治療のまま時間が過ぎる。地域は静かに疲弊し、家族も住民も報復を恐れて腫れ物に触るように日々を過ごしている。ここにあるのは、パターナリズムの不在が生む孤独と不安だ。
医師が灯を掲げることをためらうとき、誰がその闇を照らすのか。現代の医師には「柔らかなパターナリズム」が求められる。導くが押しつけず、寄り添うが見失わずしかも倦まず弛まず。虫音に耳を澄ませ、月灯の下で語り合うような医療。そんな関係性が、今の時代にふさわしいのではないか。医師の言葉が、患者様の心にそっと灯るように。
(令和7年10月号)