谷 久
戦後、昭和天皇は皇太子の教育係の一人にアメリカ人をと強く希望されました。教育係の小泉信三慶應義塾長、GHQなどによりヴァイニング夫人が選ばれ来日されました(ヴァイニングご夫妻はその少し前にニューヨークで交通事故。夫は死亡、夫人は重傷でしたが助かりました)。
来日に際しては、最初一年契約。明仁親王の他、皇室全般、学習院でも教え、皆にたいへん慕われ、任期は4年に延長されました。
任期終了で帰国後もヴァイニング夫人と皇太子のあいだには、深い尊敬の念に支えられたお付き合いが夫人の最晩年にまで続きました。明仁親王結婚に際しては唯一人の外国人招待客として参列。
また明仁親王と美智子妃とのアメリカ訪問に際し、アイゼンハワー大統領主催の歓迎晩餐会にヴァイニング夫人も招かれています。
また皇太子殿下も、かなりヤンチャなところもおありだったようで、ある晩、同級生数人としめし合わせて、御所を抜けだし夜の街探索に出かけようと計画したのだそうです。後にその話が出た時に皇宮警察の方が、塀を越えたのが、何時何分、どこどこの角を通ってご帰還は何時何分と明かされ大笑いとなったとのこと。
このように昭和天皇、小泉信三、ヴァイニング夫人らの意図された明るく開かれた皇室へと望ましい方へ向かったのでした。
(令和7年10月号)