新津信愛病院
清水 敬三
「泣く奴は頭が悪い」と、私はずっと言い続けてきた。泣くことで思考は曇る。感情に流されると判断を誤る。どんなに心理的に追い詰められても冷静でいたい。科学者でいたい。知・情・意のうち、知を優先させたい。そう信じてきた。
臨床の場では、患者様を泣かせる技術に長けている。涙はカタルシスとなり、治療的に働く。だから、あえて沈黙を置き、言葉を選び、心の奥に触れるように話す。泣かせることは、癒しの一環であり、技法でもある。だが私は泣かない。泣くことは、理性を揺るがし、精神科医としての自己規律と人間的な同情の境界を曖昧にする行為だ。
そんな私が、『日本婦道記』の「松の花」を読んでいるとき、不意に涙が頬を伝っていた。臨終の妻の手を握った男が、初めてその手の荒れに気づく。優雅な生活を送らせていたと思っていたのに、そこにあったのは働く女の手だった。私はその描写に、何かを突きつけられたように泣いていた。
それ以来、家族に内緒で眼を拭くことがある。誰にも見られないように、静かに。泣くことは、頭が悪くなることではないらしい。むしろ、知に偏りすぎた私の思考を、情がほどいてくれている。
私は頭が悪くなったのか。そう問うたとき、少しだけ優しくなれた気がした。泣くことは、知を手放すことではなく、知に深みを与えることなのかもしれない。
川柳:
荒れし手に 気づけぬ日々の 重さ泣く
泣くたびに 賢さひとつ 深くなる
(令和4年8月号)