山本 光宏
私が医師免許を取得した当時は、形成外科医局に入局し、保険診療の現場で症例を重ねて専門医を取得することが、医師としての標準的なキャリアパスとして確立されていました。その研鑽の先に、高次医療機関での勤務継続か、地域医療への貢献としての開業かを選択する。これは当時の医師にとって、普遍的な選択の在り方でした。美容外科はその過程における限定的な一分野に過ぎず、専門医取得前にその道を選択する医師は極めて少数派であったと記憶しています。
当時の私は、自由診療を自らの専門領域として検討することはありませんでした。形成外科の本質は、外傷の加療、組織欠損の再建、機能の回復を図り、可能な限り解剖学的に正常な状態へと復元する点にあります。その学問的・臨床的意義に疑いを持つことなく、目の前の症例に向き合っていました。美容外科は、それらとは依って立つ論理が異なる、別個の領域であると認識していたのです。
しかし現在、若手医師を取り巻く環境は劇的な変化を遂げています。初期臨床研修を修了した直後に美容医療の現場へ進む、いわゆる「直美(ちょくび)」という選択が一般化しつつあります。厚生労働省の統計や各種報道でも指摘されている通り、専門研修(専門医プログラム)を経ずに自由診療分野へ進む医師は年間200人規模とされており、これは一時的な流行ではなく、医師のキャリア形成における一つの構造として定着しつつあります。
若手医師が自由診療を選択する背景
この動向の背景には、現行の医療制度が抱える構造的な問題が横たわっています。自由診療は診療報酬制度の制約を受けず、収益に基づいたインセンティブ報酬が設定されるため、若年層であっても高所得を得やすい環境にあります。また、夜間救急対応や病棟管理、当直業務といった負担が少なく、労働時間と私生活の管理を医師個人が主導できる点も、合理的な選択肢として映っているのが実情です。
対照的に、保険診療を支える病院勤務の現場は、依然として過酷な状況が続いています。長時間労働の常態化、慢性的な人的資源の不足、そして課せられる責任の重さに対して、必ずしも経済的な対価が相応ではないという現実があります。現在の医療提供体制が生み出しているこれらの歪みが、若手医師を自由診療へと向かわせる一因となっている事実は否定できません。
しかし、美容外科が単に「負担が少なく収益性の高い近道」であるかと言えば、事実は異なります。その実態を正確に把握せずに参入した結果、医師本人が深刻な葛藤に直面するケースを私は数多く見てきました。
自由診療の現場で直面する事実
美容外科において、医師は臨床家であると同時に、運営主体としての売上責任を課される場面が多々あります。カウンセリングは医療情報の提供に留まらず、成約率という数値で評価の対象となります。医学的に妥当な説明を行っても、それが収益に直結しない場合に受ける組織からの圧力は、保険診療の現場では経験し得ない精神的な負荷となります。
また、合併症発生時の責任の重さも特筆すべき点です。美容医療は、身体的に健康な状態からさらに高い充足を求める患者を対象とします。それゆえ、術後の期待値は極めて高く設定されています。浮腫、左右差、瘢痕、麻酔に伴うリスク。これらは医学的に予見可能な事象であっても、患者にとっては受け入れ難い「不利益」として認識されます。インフォームド・コンセントがあったという事実だけでは、紛争やクレームを回避する解決策にはなり得ないのがこの世界の現実です。
さらに、トラブル発生時に組織的なバックアップを得られず、担当医個人が全責任を負うという孤立した構造も散見されます。救急外来や病棟業務がない代わりに、一対一の極めて濃密かつ逃げ場のない対人責任が発生するのが自由診療の現場です。
専門的基礎が判断の根拠となる
これは若手医師に限った課題ではありません。美容外科で頻用される重瞼術、糸によるリフトアップ、充填剤(ヒアルロン酸等)の注入などは、手技自体は簡便に見えるかもしれません。しかし実際には、顔面の精密な解剖学的知識、血流動態、神経走行、創傷治癒の機序、そして患者の精神医学的側面までも包括的に判断しなければならない、高度に総合的な外科診療です。
私は、形成外科における外傷加療や再建外科の経験があったからこそ、合併症のリスクを予見し、踏みとどまることができた場面が多々あります。もし、それらの基礎的な臨床経験を欠いた状態で美容の現場に立っていたならば、予期せぬ事態に対処できず、医師としてのキャリアを継続できていなかった可能性さえあると考えています。
私が強調したいのは、美容外科への進路選択を否定することではありません。真摯に取り組むのであれば、患者の自己肯定感を高め、人生の質を向上させ得る有意義な分野です。ただし、そこは決して容易な道ではありません。安易な展望のみで参入すれば、必ず現実に直面します。治療を断る勇気、侵襲を加えないという判断、そして経過を最後まで見届ける完結型の責任。これらを引き受ける覚悟がなければ、持続可能な診療は成立しないのです。
次回は、この「直美」という現象が現在の美容医療現場にもたらしている構造的変化について、現場の視点から考えてみたいと思います。
(令和8年5月号)