佐々木 壽英
1.夏が来れば 思い出す
はるかな尾瀬 とおい空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径
水芭蕉の花が 咲いている
夢みて咲いている 水のほとり
石楠花色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空
2.夏が来れば 思い出す
はるかな尾瀬 野の旅よ
花のなかに そよそよと
ゆれゆれる 浮き島よ
水芭蕉の花が 匂っている
夢みて匂っている 水のほとり
まなこつぶれば なつかしい
はるかな尾瀬 遠い空
江間章子作詞、中田喜直作曲による「夏の思い出」である。江間章子は大正2(1913)年に上越市高田で生まれ、4歳の時に父の急逝で母の実家がある岩手県八幡平へ移住した。12歳で再度静岡市へ移住し県立高等女学校を卒業し、作詩家を目指して東京へ出た。昭和11(1936)年23歳の時に詩集『春への招待』を自費出版している。
昭和22(1947)年、NHKが「夢と希望を与える歌」の歌詞を、詩誌『椎の木』で活躍していた江間章子に依頼した。江間章子は昭和19(1944)年に尾瀬を訪れており「夏の思い出」を作詞した。
中田喜直はNHKからこの歌詞を受け取ると、すぐに曲は出来上がった。それを母親に見せたところ「これはお粗末です。すぐに作り直しなさい」と叱られた。そこで作曲し直した曲が昭和24(1949)年6月13日NHKの「ラジオ歌謡」で発表され、大ヒットした。中田喜直は送られてくる印税の一部を必ず母親の元へ届けたという。
中田喜直の父は「早春譜」作曲の中田章である。
この歌に心を動かされて尾瀬を訪れたいと思っていたが、中々その機会はなかった。最初に尾瀬へ入ったのは2008年6月22日、江間章子が91歳12カ月で亡くなった3年後の夏であった。
写真仲間が尾瀬の撮影旅行に誘ってくれたのが切っ掛けであった。これまでに夏2回、秋3回の合計5回尾瀬を訪れている。昭和9(1934)年に建てられた沼尻の長蔵小屋にも泊っている。
季節も夏と秋だけで、尾瀬の絶景のほんの一部を撮影したに過ぎない。感動して撮影した風景70数枚を写真集『私の尾瀬』として纏めている。
その写真集の中から江間章子の「夏の思い出」を彷彿とさせる尾瀬の風景を紹介する。
江間章子は5月頃、尾瀬沼側から尾瀬に入り、群生した水芭蕉を見ている。水芭蕉は夏の季語で、旧暦では4月から6月が「夏」である。「水芭蕉が見事なら5月でも私は夏と呼ぶ」と述べている。
私が鳩待峠側から尾瀬に入ったのが6月末と遅かったため、水芭蕉を見たのは尾瀬ヶ原の入口近くの1カ所だけであった。
「水芭蕉の花が匂っている」と書いている。それに触れて、「水芭蕉は匂いません。詩とは写真のように見えているものをそのまま表現することはないのです」と述べていたようです。
尾瀬沼側から入った江間章子は、沼の入口に立っている3本のカラマツは見ている筈である。深い霧の中に浮かぶカラマツは幻想的である。
尾瀬ヶ原には大小さまざまな池塘があり、浮き島を浮かべている池塘もある。私は幸いにも、花の咲いている浮き島を撮影することができた。
2番に「花のなかに そよそよと ゆれゆれる 浮き島よ」とある。浮き島は揺れません。揺れたのは、江間章子の心で、それを「ゆれゆれる」と浮き島に託したのかもしれません。
尾瀬ヶ原が夕闇に包まれる頃、石楠花色に染まる夕景は格別である。木道も光っている。
過ぎ去りし日の思い出を、万感の想いを込めて「まなこつぶればなつかしい はるかな尾瀬遠い空」と結んでいる。戦後、「夢と希望を与える歌」という依頼のため、歌詞に苦しい心の動きを書き込むことはできなかったであろう。
夏が来れば「何を」思い出すのか。
戦時下の昭和19年5月、31歳の江間章子は何故尾瀬へ入ったのか。「偶然なことから、5人ほどの人たちと尾瀬に入った」と記している。
その前年、昭和18年10月から文系の学徒出陣が始まっていた。「思い出す」のは尾瀬の美しい風景だけでは無さそうである。
詩人で美人の江間章子を慕い、一緒に尾瀬に入った若人達は、無事帰還されたであろうか。
江間章子は何故か独身のまま生涯を閉じた。

写真1 夏が来れば思い出す

写真2 やさしい影 野の小径

写真3 水芭蕉の花が咲いている

写真4 霧のなかにうかびくる

写真5 花のなかに ゆれゆれる 浮き島よ

写真6 石楠花色にたそがれる
(令和8年5月号)