新津信愛病院
清水 敬三
私はどうやら実存的絶望に至れない人間らしい。自己愛がそこそこ健康で、防衛機制もほどほどに働いていれば、人は案外その深淵を覗かずに生きていける。つまり、自分を守る機構がうまく作動している限り、世界はそれなりに安定して見えるのだ。
それでも、ときどき心がざらつく瞬間がある。信念が揺らぐときだ。私には二つの信念がある。ひとつは「医師は人から暴力を受けても決して反撃してはならない」というもの。もうひとつは「いざという時、皆が右へ行くなら、自分は左に行きたい」というものだ。前者は職業倫理へのこだわり、後者は大勢の流れへの違和感の表れかもしれない。
だが時に思う。この信念たちは、絶対的な自己規範というよりも、“揺らぎを測るための試金石”として機能しているだけではないかと。もしそれらが崩れたとき、自分はどうなるのだろう。自己愛という鎧を脱ぎ捨てた先に何が待っているのか。剝き出しの自分 ─ そこにこそ実存的絶望が潜んでいるのだろうか。
哲学者ヤスパースは、人が限界状況で挫折し絶望することが、どこかで真の実存に目覚めるきっかけになると説いた。それは、信念を失うことへの恐れであり、同時に、もしそう出来なかった場合の結果を受け入れられるかどうかを問われる瞬間でもある。しかし、結局のところ、私はまだそこに至っていない。至れないことを恥じるでもなく、誇るでもなく、ただ静かに自覚している。
これからも私は、安定した防衛機制に守られながら、ときおりその隙間から吹き込む冷たい風に耳を澄ませていく。いつか、その風が本物の実存的絶望へと私を導いてくれることを、少しだけ期待しながら。
川柳
絶望も 守られすぎて 来てくれぬ
(令和8年6月号)