新潟市医師会 前会長 藤田 一隆
この度、3期6年にわたって務めさせていただきました会長職を退任いたしました。この間、ご協力いただきました会員、ならびに役員の先生方、事務局の皆様に、心より感謝申し上げます。
ここで、平成14年に理事に就任してからの18年間を年代順に振り返ってみたいと思います。
1)地域医療部長(平成14年~18年)
佐々木繁会長(当時)から地域医療部長を拝命しました。最初の仕事は、前任の佐野正俊先生が担当していた「内視鏡を用いた胃がん検診制度」の創設のお手伝いでした。会員の先生方にアンケート調査を行い、新潟市の担当者と何度も議論を重ねた末、平成15年に開始することができました。いわゆる“新潟方式”の始まりです。
もう一つが、介護認定審査会委員の選出方法の確立でした。当時は、アンケート調査を行い、ご協力頂ける先生を中心に依頼していました。介護保険制度は新潟市民全員が関係する国が定めた制度であり、すべての医師が応分の負担をすべきと考えた私は、新しい選出方法を模索しました。診療所分については、各班のA会員数に応じて班ごとに委員数を按分し、選出は班長先生にお願いすることにしました。病院・施設分については、勤務医数に応じて、1人ないし2人の委員選出をお願いすることにしました。班長会議で丁寧に説明し、会員の先生方の承諾を得ることができました。しかし、班長先生が交替するたびに、質問やお叱りの言葉をいただき、当該班に出向いて直接説明して委員選出のお願いをしたこともありました。行き詰って滅入っていた時に、多くの先輩理事から頂いた励ましのお言葉に勇気づけられ、「独りではない」ことを実感しました。
2)総務部長(平成18年~22年)
若輩で経験不足の私に対して、大川賢一会長(当時)より総務部長就任の打診がありました。驚きと戸惑いの感情が入り混じった中での承諾でしたが、「会長の黒子に徹して精一杯努力する」と覚悟を決めました。今まで、地域医療に関連した事項のみを担当してきた私にとって、総務部の仕事は多岐にわたり、新しいことばかりでした。毎週木曜日に医師会事務局に顔を出し、佐藤事務局長(当時)に教えを請いました。大川会長も同席されることが多く、医師会運営に関するお考えを直に聞くことができ、多くの事を学びました。この毎週木曜日の事務局出務を会長職退任まで続け、多くの方々と意見交換をする機会を得られたことは、私の大きな財産となりました。
総務部長は殆どの会議の司会を担当するため、遅刻は許されません。会議の日は当日朝から自院での診療を調節して、昼休みや夜の会議に備えました。医師会創立百周年記念式典の日、午前診療終了後すぐに会場に駆けつけ、夜の宴会まで昼食も摂らずに司会進行係を全うしたことは懐かしい思い出です。『新潟市医師会創立百周年記念誌』の執筆も大変でした。適当な担当部が見当たらない事項はすべて総務部の仕事になるため、膨大な内容となりました。佐藤事務局長から古い書類(手書きの理事会資料など)を用意していただき、浅井忍委員長からは何度も原稿の催促を受けながら、何とか完成させることができました。
平成21年4月には、大川会長の長年の懸案であった8科体制の「新潟市急患診療センター」が新潟市総合保健医療センター1階に開設されました。仙台市や札幌市の急患センターを見学し、大学、市内救急病院、各医会、行政を巻き込んでの大事業でした。
3)副会長(平成22年~26年)
佐野正俊会長(当時)の下、学術部長の鷲山和雄理事が中心となり、大学の先生方や行政の皆様のご協力を得て、平成24年度に「地域医療研究助成事業」が開始されました。基礎医学も含めた若手研究者に研究費を助成するもので、初年度は18件の研究応募があり5件が採用されました。
最も大きな出来事は、公益法人制度改正でした。当会は公益社団法人ではなく、一般社団法人を選択しました。東京から専門家を招いて勉強会を開催し、定款を一から見直して改正案を策定しました。定款すべてに目を通すのは初めての経験であり、その重要性を再認識しました。
4)会長(平成26年~令和2年)
①1期目
3つの目標(組織率の向上、IT化、事務局の強化)を掲げました。
「組織率の向上」を目指して、研修医の会費を無料化しました。また、勤務医の先生方に当会を知っていただくための方策として、会報に『病院だより』と『Doctor’s Café』のコーナーを設けました。結果、会員数は1,560名と過去最多(当時)を記録しました。
「IT化」については、理事会の資料を電子化し、完全ペーパーレスで運営するとともに、会員向けにその内容をホームページで公開しました。他のホームページの充実、各種検診データの電子媒体による管理やファイリングシステム導入も積極的に進めました。
「事務局の強化」については、事務局組織を改編し、局長を頂点に次長・課長・係長を配することで、事務局員各自の役割分担を明確にしました。
また、「在宅医療推進室」を開設し、永井明彦センター長以下、3名の職員を採用しました。
②2期目
3つの目標(強い医師会づくり、個の充実、新潟市医師会からの発信)を掲げました。
「強い医師会づくり」の一環として、B・C会員、D会員(研修医)の入会促進に努めた結果、会員数が1,600名を超えました。
「個の充実」を目指して、各人が力を発揮できるよう部の改編を行いました。「医政・調査部」を「医療安全部」に、「福祉部」を「福利厚生部」に名称変更し、業務内容を変更しました。また、仕事量が増加した「地域医療部」を「地域福祉部」と「在宅医療部」に分割することにより、業務量の均等化を図りました。
「新潟市医師会からの発信」の手段として、会報やホームページの充実に努めました。会報送付先を増やすことにより、未入会の先生方への情報提供の機会を増やしました。新潟市に対しては、常に“顔のみえる関係”を維持し、協議を重ねながら、当会の意向を伝えました。また、報道関係者との懇親会も開催いたしました。新潟市議会議員とも交流の場を設け、当会の考えを丁寧に説明しました。
③3期目
「原点回帰」をスローガンに掲げました。規範とすべき原点として、『日本医師会綱領』(日本医師会の原点)、『新潟市医師会定款』(当会の原点)、『医の倫理綱領』(医師の原点)の3つを挙げました。
一般社団法人として再出発した際に策定された『新潟市医師会定款』については、定款、ならびに細則をすべて見直しました。その結果、代議員数の変更、任期の明確化、予備代議員の代理出席、理事の定数2名増加、会計規定の文言の整理を行うこととしました。
大きな課題として“三位一体の医療提供体制の改革”、すなわち「地域医療構想」、「医師偏在対策」、「医師の働き方改革」が挙がりますが、新型コロナウィルス感染で宙に浮いた状態になってしまいました。病床数削減のみを議論するのではなく、今回のような新興感染症が発生した場合に備えて、病床稼働率が低い病床を病棟単位で空けておくことも対策のひとつではないかと考えます。
以上、私が新潟市医師会理事に就任してから18年間の出来事を纏めてみました。この間にご指導いただきました、当会歴代会長の佐々木繁先生、大川賢一先生、佐野正俊先生、ならびに前新潟県医師会長の渡部透先生に、衷心より感謝申し上げます。
新型コロナウィルス感染という未曽有の災害が収束しない中での執行部交替となりました。これから多くの困難が待ち受けていることと思いますが、浦野正美会長以下有能な理事が揃う新執行部ですので、きっと乗り越えられると確信しております。
新潟市医師会の更なる発展を祈念いたしまして、退任の挨拶とさせていただきます。
(令和2年7月号)