新潟市医師会 副会長 岡田 潔
ある患者さんの話をします。初めて診察したのは1998年、彼の健康診断でした。東京で勤務医をしていた私が、父から引き継いで新潟市内で開業した年です。1928年生まれのかたなので、ちょうど70歳の時です。身長は182cmもあり、体重は優に100kgは超えていました。それだけでもインパクトのある男性です。あとで知りましたが、当時、私がいつも利用していたガソリンスタンドチェーンのオーナーでした。
2001年、「老々介護で不安なので、女房の具合が悪い時だけ往診して欲しい」と、その患者さんから頼まれました。市内に住む長女に事情を伺うと、「母のかかりつけ医は病院なので往診はしていない」とのこと。「女房がショートステイから帰宅する時が心配」だと、彼はとても愛妻家なのです。2005年頃から、誤嚥のため奥様がたびたび熱を出すようになり、月に一度は往診に行き、抗生剤の点滴をすることもありました。2007年に奥様は誤嚥性肺炎で亡くなられました。葬儀の時、「お斎について欲しい」と電話がありましたが、日程が合いませんでした。
マイペースな患者さんなのですが、何故か馬が合い、色んな話をしました。彼は2003年、スウェーデン旅行中に意識を失って救急車で入院しました。「現地の担当医に『帰国したらすぐに日本の病院へ受診しなさい』と言われたが、忙しくて、半年後に大学病院へ行ったら、『脳梗塞だよ』と言われた」と、けろっと私に話します。2008年のこと、「引っ越すことになって少し遠くなるけど、これからも健診などで通うのでよろしく」と言われました。「東京の次女に『マンションを買ってあげる』と言われたが、『親に買ってあげるとは何事だ』と怒鳴りつけた」と、でも「次女から『新潟に資産が持ちたいので住んでください』と頼まれたので『引っ越すことにした』」と言うのです。いかにも彼らしいやり取りに、私は思わず笑ってしまいました。奥様が亡くなってからは、スイス、カナダ、ハワイ、タイ、韓国、沖縄、上高地…旅行三昧で、特に「スイスで死んだら本望だ」とスイスはリピーターでした。野球も大好きで、「東京の次女がチケットを取ってくれるので、自分は行くけど、先生も観に行きませんか」とお誘いを受けたこともありました。
2016年のある日、新潟市の長女から、「父の持病が急速に進行して、通院していた大学病院に緊急入院しました」と連絡をいただきました。それから10日あまりでお亡くなりになりました。お通夜に駆けつけて、東京に住む次女とも初めてお会いしました。
次女のお名前は、南場智子さんです。
智子さんはマスメディアへの露出度も高いので、数多くのインタビュー記事を目にしました。お父様の影響力は強力だったようで、智子さんのインタビューにもよく登場します。「父の前ではおとなしかった。厳しく育てられたので、心の底では自由に対する渇望感がすごくありました。新潟高校時代も門限が午後6時。東京の大学に行きたくて、3年生のお盆休みに初めてお伺いを立てたら、『新潟大学に行け』って」。結局、父親から提示された条件とは「女子寮がある女子大であること。卒業後は新潟に戻り、就職は自分に任せること。ボーイフレンドを作らない。学生運動はしないこと」。最後に「津田塾大学を受けなさい」と言われたそうです。負けず嫌いで、子どものころから勉強でも何でも学校で一番の彼女は、津田塾大学にもすんなりと合格、大きな夢への歩みをスタートさせました。1984年、4年生の時、父親の大反対を押し切り、主席の奨学金で津田梅子が学んだブリンマー大学に留学します。
その後、新潟には戻ることもなく、1999年に36歳でディー・エヌ・エーを創業しましたが、当初はとにかくすべてが上手くいかなかったそうです。「『正しい選択肢を選ぶ』ことは当然重要だが、それと同等以上に『選んだ選択肢を正しくする』ということが重要となる」は彼女の強いメッセージです。それまで順風満帆だった多くの人の人生を荒波に巻き込み、四方八方に迷惑をかけながら失敗のフルコースを片っ端から経験して、智子さんは現在、代表取締役会長です。横浜DeNAベイスターズを買収、2015年にプロ野球史上初の女性オーナーとなりました。2020年、プロ野球オーナー会議で初の女性議長に選出されました。2021年には女性初の経団連副会長にも就任され、「国力のため女性を活用した方がいいが、形式的に『女性を一人入れておこう』というのには大反対」、これは本人の弁です。
新潟県は県土が広いので、それぞれの生活圏の人口は決して多くはありません。人口当たりの医師数が極めて少ない県なのに、中小の医療機関が多いのが象徴的です。医療資源を有効に活用するためには、その生活圏でのほぼ唯一の病床を存続させながら、同じ生活圏に類似の規模・診療科がある病院の統廃合を進めることでコンセンサスが得られています。この問題を解決するため、2017年に「新潟県地域医療連絡協議会」において時間をかけて、複数回の検討を行いました。
また、団塊の世代が後期高齢者となる2025年に向けて計画された「新潟県地域医療構想」でも、総論賛成、各論反対の突破口を見つけることが、どんなに面倒で、どれ位大変なことなのか、私たちは経験してきました。
さらに、県の医師不足についても、2018年に新潟大学、県医師会と県が連携して「新潟県医師確保計画」を策定しました。2022年度は県外の各大学医学部を合わせると、新潟県の令和4年度地域枠は、20名増えて7大学53名になります。さらに新潟大学医学部医学科の定員が、2023年度は140名になる予定です。イソップの「北風と太陽」の対決のように、臨床研修医にとって魅力のある働きやすい環境を整備することも忘れてはいけません。県と臨床研修病院の連携により、臨床研修に加えて、新潟県オリジナルの研修コースや海外留学支援制度を創設しました。これらの取り組みなどの結果、2022年度の臨床研修医数が125名となり、前年度より21名増加しました。
私自身もUターン組の一人ですが、新潟大学医学生の県内定着や県外大学医学生のU・Iターン促進に向けた取り組みが少しずつ実を結んでいます。
しかし、東京へ飛び出して、死に物狂いでチャレンジして、一握りの成功を掴む人たちもいます。南場智子さんは、新潟県から飛び出して、日本を代表する経営者になりました。おそらく現在の日本人女性で最も有名な一人です。私は新潟県民として、とても嬉しい気持ちになります。そして、何よりも新潟県の誇りだと思っています。彼女がTVや新聞に登場する度に、新潟県民の一人としてエールを送っています。
ただし、私の家族は皆巨人ファンなので、こっそりと横浜DeNAベイスターズの応援をしています。
※南場智子様より、新潟市医師会報へ掲載することについて了解を得ています
(令和4年10月号)