浅井 忍
ロスト・ジェネレーションとは、日本ではバブル崩壊からの約10年間に新卒で就職を試みた就職氷河期世代を指すが、アメリカでは1920年代から1930年代に活躍した小説家たちを指す。
アーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』(新潮文庫)に、この言葉が生まれた背景について詳しく書かれている。本書は1920年代前半に小説家として駆け出しだった20歳代前半のヘミングウェイが、妻ハドリーとパリで暮らした数年間を綴った回顧録である。その当時、パリで生活していた著名な人物が数多く登場する。とくに、自らも小説家で詩人であり、パリに集まる芸術家たちに自宅をサロンのように解放していたミス・ガートルード・スタインと、3作目の小説『グレート・ギャツビー』を発表し、輝き出したF・スコット・フィッツジェラルドに多くのページが割かれている。移動祝祭日とは、年によって日付が変わる祝祭日のことである。
“ユヌ・ジェネラシオン・ペルデュ”というタイトルの項に、「ロスト・ジェネレーション」という言葉が生まれた経緯が書かれている。ミス・スタインのフォードが故障して、自動車整備工場に修理に出した。整備工場の若い整備工は、第一次世界大戦に従軍した経歴の持ち主だが、車の修理に当たって手際が悪かった。ミス・スタインから抗議を受けた工場主は整備工をきつく叱った。「おまえたちはみんなだめなやつら(ジェネラシオン・ペルデュ)だな」と工場主は言ったという。
ミス・スタインはヘミングウェイに、「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。みんな自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)なのよ」と言った。「あなたたちは何に対しても敬意を持ち合わせていない。お酒を飲めば死ぬほど酔っ払うし……」。へミングウェイは反論したが、ミス・スタインは譲らなかった。ヘミングウェイは家に帰ってからミス・スタインへ毒づく言葉を並べたてたものの、最初の長編『日はまた登る』のエピグラフに、ロスト・ジェネレーションという言葉をちゃっかり採用し、それと釣り合いをとるべく旧約聖書の一節を並べたと、舞台裏を明かしている。
『日はまた昇る』(新潮文庫)に当たってみると、〈「あなたたちはみんな、ロスト・ジェネレーションなのよね」ガートルード・スタインの言葉〉と並列して、旧約聖書の『傳道之書』からとった小説のタイトルを暗示する少し長めの文章が記載されている。
F・スコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダは南部一の美人と名を馳せた資産家の令嬢だが、スコットを振り回す難儀な性癖の持ち主であった。スコットはゼルダにベタ惚れで、ゼルダはスコットの嫉妬心を煽るような行動を平気でとるのだった。スコットがアルコールの量を減らし体調を整えて、執筆に取り組む生活が軌道にのると、ゼルダはスコットを自堕落なパーティに引き込もうとした。一時、夫婦は落ち着くが、ゼルダは次第に正気を失っていった。
ところで、ウッディ・アレンの映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)には、新婚旅行でパリを訪れた小説家を志す青年が、1920年代のパリにタイムスリップして、『移動祝祭日』に登場する有名人たちと出会うシーンが出てくる。青年はヘミングウェイに自作の小説に目を通してくれるように頼むが、ミス・スタインに見てもらいなさいと断られる。ウッディ・アレンは映画の脚本を書くにあたり、本書を参考にしたのは間違いないだろう。なお、ミス・スタインを演じているのは、『ミザリー』(1990年)で、交通事故で重傷を負った小説家を自宅に監禁し、思い通りのストーリーの小説を書くよう脅迫する元看護師を演じて、アカデミー賞主演女優賞を獲得したキャシー・ベイツである。
(令和元年9月号)