黒田 兼
仏像は信仰の対象である。だが博物館に展示してあるものは、なんとなく「ただ今お休みを頂いております」という感じ。お堂の中にきちんと安置されていたとしても、「いらっしゃいませー」っぽいお仏像も多い。例えば、京都の仏像達はこちらを威嚇することもなく、優しげな気がする。それに比べ奈良の彼らからは「ホンキで仕事してんだから、邪魔すんな!」というオーラを感じる。というわけで今回はわたしの好きな奈良の仏像を紹介してみたい。
近鉄奈良駅からのバスを降り、脇の小道を歩き出す。入江泰吉記念奈良市写真美術館の前を通り、しばらく行くと小さな門が見える。拝観料を納め門をくぐると奈良らしい小ぶりのお堂。この新薬師寺の本尊は薬師如来。そしてその周囲を円形にぐるりと取り囲む十二神将が素晴らしい。十二神将は、薬師如来とそれを信仰する者を守る十二体の武神である。一体を除き奈良時代に造られたもので、武器を持ったほぼ等身大の像である。ガラスの吹き玉で造られた眼球で、周囲をにらみつける怒りの表情はそれぞれ個性的。ずっと見ていても飽きない。当時の彩色が衣の陰などわずかに残っており、往時の色彩の鮮やかさを想像させる。またそれぞれが12の方向を守ることから十二支の守護神としても信仰され、今年の干支の丑ならば招杜羅(ショウトラ)大将という具合である。
次はいきなりマニア度があがってしまうが聖林寺の十一面観音。奈良市内から車で約1時間、奈良県桜井市の里山にぽつんとお寺がある。ずっと訪ねてみたいと思っていたが、6年前の年始に拝観できた。正直この小さなお寺にそんな素晴らしい仏様がいらっしゃるとは想像できない。すぐそばの駐車場はがらんとしており、料金所もカーテンが閉じていた。どうしたものかと思っていると古いカローラに乗った老夫婦が現れ、助手席から小太りのおばあさんが杖をつきながら降りてくる。「いやぁー、膝痛くなって医者行ってた。はい300円ね」いきなりほのぼのする。小さなお堂に入ると巨大なお地蔵様。なかなかのインパクトの愛嬌ある白いお顔で、家族達は「観たがってたの、これ?」と笑いそうになっている。「な訳ないでしょ」と答えつつ、まずはお地蔵様に手を合わせる。外の階段を上って観音堂へ向かう。鉄の重い扉を開けるとガラス越しにすっと立った観音様。観音とは人々の苦しみをきいて救ってくれる菩薩なのだが、その表情は無表情というか、少し厳しく感じるお顔である。仏に頼る人々を優しく、それでいてその甘えを戒めるようでもある。均整のとれた優美なお姿。右手の指の表現は繊細。うーん来てよかった…と唸る仏様である。ちなみに今年6月から9月まで上野の国立博物館で展示される予定。
最後は大仏で有名な東大寺。大仏殿から少し離れると観光客はほぼいなくなり、土塀に囲まれた戒壇院が見えてくる。本当に小さなお堂に入ると真夏でもひやっとした空気を感じる。戒壇とは、僧になるために受戒する場、平たくいえばお坊さんの免許を授かる場である。この神聖な場所を守るため四隅に立つのが四天王像。新薬師寺の十二神将と同時代の作であるが、誇張された表現の十二神将に対し、写実的で抑制された表現である。中でもわたしが好きなのは広目天であるが、右手に筆、左手に巻物を持ち目を細めて遠くを見つめている。その眼差しは観るものの心を見透かすようで少し怖い。そして表情は内なる怒りも感じさせ、狭い空間で仏像との距離が近いため、何回訪れてもこちらが緊張してしまう。
仏像達のホンキ度は、彼らと直に対峙してのみ感じ取れるもの。しかしこのコロナ禍、残念ながら暫くはリモート参拝、ということになりそうである。
(令和3年3月号)