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新潟市医師会報より

新潟市医師会

「城ヶ島の雨」秘話

佐々木 壽英

「城ヶ島の雨」は昔からよく口ずさんできた懐かしい歌です。

雨はふるふる城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる
雨は真珠か夜明けの霧かそれともわたしの忍び泣き
舟はゆくゆく通り矢のはなを濡れて帆上げたぬしの舟
ええ船は櫓でやる櫓は唄でやる唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる日はうす曇る船はゆくゆく帆がかすむ

私はこの曲を、真珠のような雨が降る城ヶ島の港から沖を目指す帆掛け舟があり、一人の女性が見送っている一幅の美しい絵画のような景色を思い描いて、歌ってきました。

合唱団にいがた結成30周年記念コンサートが、2023年5月21日に新潟市民芸術文化会館コンサートホールで開かれました。この合唱団へは設立当初に入団して、結成10周年にはハイドンの「オラトリオ『四季』」を歌いました。その後、15周年にも「オラトリオ『四季』」が、20周年にはパイプオルガン伴奏でヘンデルの「メサイア」が、25周年にはフォーレの「レクイエム」が演奏され、これら記念コンサートには毎回歌ってきました。今回も30周年記念ということで正月から週1回の練習に参加してきました。

プログラムの最初の曲が信長貴富編曲の「ビバルディが見た日本の四季」で、中間にモーツアルトの交響曲第31番「パリ」を挟んで、最後の曲はモーツアルトの「戴冠ミサ」でした。戴冠ミサはりゅーと新潟フィルハーモニー管弦楽団との共演でした。

「ビバルディが見た日本の四季」の中で、春は「花」、夏は「城ヶ島の雨」、秋は「村祭り」、冬は「ペチカ」が選曲され、信長貴富の編曲でバイオリン伴奏によるビバルディの四季の曲中にこの4曲が見事に溶け込んでいます。この4曲のうち「城ヶ島の雨」は最も難しい曲です。この曲を本格的に歌うことになって、曲をより深く理解するためにその歌詞と曲について考えてみました。

北原白秋は「城ヶ島の雨」の出だしから薄緑色をした灰色の「利休鼠の雨が降る」と暗い雨を降らせています。梅雨時の雨でしょうか、その雨が真珠となり美しい夜明けの霧となるが、「それとも私の忍び泣き」と続けています。何故、白秋が忍び泣きをしなければならないのか、それが最初の疑問点でした。この曲には何か知らない深い思いが潜んでいるのではないかと感じて、この歌の背景を探ってみたくなりました。

「城ヶ島の雨」が北原白秋の作詞であることは知っていましたが、作曲者の簗田貞については全く知りませんでした。この作曲家についても調べてみたくなりました。そこで、北原白秋について調べてみたところ、この「城ヶ島の雨」には意外な事実が隠されていることが分かりました。

当時、文芸協会で新劇運動を始めていた島村抱月は1913年(大正2年)10月30日に第1回音楽会を数寄屋橋の有楽座で開催する計画を立て、作詞を北原白秋に、作曲を東京音楽学校(現東京芸術大学)の声楽科卒で、市立第一中学校(現日比谷高等学校)の教師であった簗田貞に依頼しました。白秋は前年の事件で失意のどん底にあり、三浦半島先端の三崎に居を移していました。音楽会が間近になっても、その白秋からは依頼した歌詞が届きません。東京から催促のため三崎の見桃寺を訪れた岩崎雅道が、舟歌「城ヶ島の雨」の歌詞を受け取ったのは10月27日の夜でした。作曲家簗田貞に渡ったのは28日となります。簗田は「城ヶ島の雨」の歌詞にたった2日で曲を付け、10月30日の音楽会本番で自らテノール歌手として独唱しています。

この前年1912年(大正元年)、27歳の白秋は隣家の人妻松下俊子と恋愛関係になり、訴えられて、俊子と共に2週間投獄されます。新聞は、連日大々的に取り上げ、白秋を激しく糾弾しました。それまで絶頂期にあった白秋の文学者としての地位は完全に地に落ちてしまいました。この事件は「桐の花事件」といわれています。

白秋は、実家の経営不振もあって極貧生活を送ることとなりました。青年白秋は自責の念に駆られて何度も自殺を考えたと云われています。翌年、失意の中、俊子と結婚し、逃げるようにして大正2年5月に三浦半島の先端三崎へ移り住みました。三崎の前には小さな「城ヶ島」があります。

島村抱月から歌詞の依頼があったのがこの時期のことです。早稲田大学を卒業している抱月は、大正2年1月に発行された白秋の歌集「桐の花」で白秋の苦悩と苦境を知っており、それを援助する気持ちで作詞を依頼したのだと思います。

白秋は早稲田の英文科を中退しています。簗田貞も早稲田の商科に在籍したことがあり、白秋の心の悩みを深く理解していたものと思われます。

作曲者簗田は、「それともわたしの忍び泣き」の最後の音程を不安定なままで終わらせて、余韻を残しています。島の東側にある潮の流れの早い「通り矢の端を 濡れて帆上げたぬしの舟」とあります。この「ぬし」は誰でしょうか。この後に、舟歌を歌う船頭さんが出てきますから、主は勿論船頭のことでしょう。

しかし、白秋はこの濡れて帆を上げた船頭と世間の荒波を乗り切ってきた自分自身を重ね合わせて見ているように思われます。曲の最後の「舟はゆくゆく 帆がかすむ」は白秋自身、行く末が見通せず、忍び泣いた涙のために帆がかすんでしまったのかもしれません。

一般的に、帆掛け船が沖に向かって遠ざかっていく最後の音程は、だんだんと音を上げて消え入る様に終わらせても良さそうに思われます。しかし、簗田は白秋の気持ちを感じ取ってか、「帆がかすむ」の最後を一音一音、音を下げて暖かく見守るように曲を終わらせています。

白秋の心情を想い、それを曲の中で表現しようとしたと思われる簗田の音程が随所に垣間見られます。難しい三連音符を45回も使って、白秋の揺れ動く心を表現しようとしたのではないでしょうか。この曲をたった2日で作曲した簗田の才能には驚かされます。大正初期に発表されたこの「城ヶ島の雨」は、数ある日本歌曲の中でも特筆すべき名曲であると思っています。

これら事実を知ったことで、この「城ヶ島の雨」に対する思いは更に深くなりました。しかし、これを歌曲としてステージで演奏するに当たっては、暗くならない様に注意しました。特に、最初の「雨はふるふる」を深みのある明るい音色で歌い出して、曲全体を美しく歌い上げるように心を配りました。

歌集「桐の花」

この事件が「桐の花事件」といわれるのは、1913年(大正2年)1月25日発行の歌集「桐の花」の中でこの事件の謝罪をしていることによります。「桐の花」の後半、哀傷編の中で「悲しき日、苦しき日七月六日」、「監獄」、「七月十六日裁判の日」、「許されたり」など事件のことにも触れて、次の短歌を詠んでいます。

「鳴きほれて逃ぐるすべさえ知らぬ鳥、その鳥のごと捕らへられにけり」

更に哀傷終編では「白猫」、「ふさぎの虫」と題して心の悩みを長文で載せています。

歌集「桐の花」の巻末「集のをはりに」では、

「わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消えはつべき」

「わがかなしみを知る人に われただ温情のかぎりをなげかけむかな 囚人は既に傷つきたる心の旅人なり」1912.初冬、と詠んでいます。

簗田 貞(ヤナダ タダシ)

簗田貞は北海道出身で、札幌農学校予科を経て、1905年(明治38年)東京音楽学校を受験し、失敗します。早稲田商科に在籍し、東京音楽学校本科声楽科を再受験して、卒業しています。簗田貞が作曲したのは「どんぐりコロコロ」と「とんび」などと少ないが、音楽教師として音楽教育家として活躍されました。

インターネットで「ビバルディが見た日本の四季」で検索すると、幾つかの合唱団の演奏を聴くことができます。聴いてみてください。

演奏を終えて

今回の演奏会は、アマチュアの合唱団としては満足すべき演奏会であったと思っています。

「ビバルディが見た日本の四季」では、第一曲目の「花」が終わった途端、期せずして大きな拍手に包まれてしまいました。第二曲目の「城ヶ島の雨」では、聴いているうちに涙が溢れてきたと医師会員の先生から感想も頂きました。

「戴冠ミサ」は30分間歌い続ける大曲です。合唱の出演者がソプラノ26人、アルト26人、バス7人の中で、私のテノールパートはたったの5人でした。それでも何とか合唱としてのバランスを保って、ほとんど暗譜状態で歌いきることができました。

2022年11月26日の新潟市医師会総会で米寿のお祝いをして頂きました。今年10月で満88歳になります。「戴冠ミサ」を歌い終わり、ブラボー連発の拍手の中で、これで私の戴冠式も終わったなと実感して、感激していました。

(昭和24年7月に高さ3m帆型の句碑が建碑された。城ヶ島の雨の一節が白秋自筆の草書で記されている。昭和35年4月に城ヶ島大橋の架橋により現在地に移転された。その際に、簗田貞の譜碑が添えられた。)

(令和5年6月号)

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