浅井 忍
文庫という言葉から、まずは普段お世話になっている小型本が思い浮かぶ。さらに明治の著名人の蔵書、あるいは明治大正に出版された文庫、はたまた鎌倉時代中期において北条実時が蒐集した和漢の書の「金沢文庫」が浮かぶ。
文庫を『大辞泉』(第一版 小学館 1995年)で引くと、①書物や古文書などを入れておく倉庫。ふみぐら。書庫。②収集されたまとまった蔵書。また、ある目的で集められたひとまとまりの蔵書。「学級―」③書類や紙筆など手回り品を入れておく小箱。文匣。手文庫。④叢書・双書・シリーズなどにつける名。⑤文庫本の略。とある。著名人の蔵書は②、明治大正の出版社の文庫は④、金沢文庫は①にあたる。廉価な小型本は⑤である。
ここで和洋の小型本の歴史を簡約する。1500年ルネッサンス期のヴェネツィアにすでに小型本が出版されていたという。1400年代のヴェネツィアでは、驚くことに2~3日に1冊の本が出版されていた。商業の父といわれるアルドゥス・マヌティウスは1501年、小型本の形でラテン語やイタリア語の古典を次々と刊行した。片手に乗るほどの本に皆は驚いた。斬新で洒落た小型本に王侯貴族の女性や若者たちが飛びついた。大型本に比べると廉価となり簡単に持ち運びができる。アルドゥスは次世代にも市場を開拓していた。
一方、江戸時代には今の文庫とほとんど同じ大きさの小本があったという。そもそも日本人は盆栽、箱庭などの小さいものが大好きである。小本は半紙本の半分のサイズで、半紙本は半紙を半分に折ったサイズである。A5サイズの大本は教科書的な教養書、中本や小本は草双子や洒落本などの通俗的な庶民の娯楽の本、とはっきり分類できる。
岩波文庫が、1867年創刊のドイツのレクラム文庫をモデルにしていることは周知の事実である。レクラム出版社は、文芸、哲学、自然科学、社会学などの広範なジャンルの本を廉価に提供している。レクラム文庫の本のサイズは縦16.5×横10.3センチである。現在販売されている文庫の標準のサイズは、A6判の縦14.8×横10.5センチで、レクラム文庫の方が縦に長く、新書のサイズに近い。岩波文庫は現在の文庫よりやや縦長だったが、戦時中の1940年、紙不足を理由に商工省が出版業界に命じて、現在のA6版のサイズになった。
新潮文庫は岩波文庫に先駆けること13年、1914(大正3)年に創刊された。それ以前にも明治から大正初頭にかけて、冨山房の「袖珍文庫」や立川文明堂の「立川文庫」などの数々の文庫が創行されたが、現在は刊行されていない。当初、新潮文庫は100冊の刊行を予定したが、高い値段が災いして利益を上げることが難しくなり、3年間43点で終了せざるを得なかった。次の新潮文庫の刊行が、1928(昭和3)年12月であったことから、1927(昭和2)年7月に創刊された岩波文庫を、文庫創刊の嚆矢とする見解が優勢である。
文庫といえば解説が付きものであるが、文豪に類する著者の本は著名な国文学者クラスの人物が担当するのが妥当であろう。夏目漱石の研究の権威である江藤淳の解説を紹介する。江藤は、明治の文学の多くが読者を失ったなか、なぜ漱石だけが今日も読者に愛され続けるのかとの問題を提起している。第一は、他の近代作家が江戸的な感性を否定したことに対して、漱石は継承したことを挙げている。第二は、漱石は現代の影の部分を早く気づいて時代を突き抜けたことだという。
岩波文庫にカバーが初めて付いたのは1983年である。カバーが付く前は、帯とパラフィン紙のカバーという形で販売されていた。初めは裸本であった。新潮文庫も最初は裸本であったが、1960年にはカバー付きが大幅に増えた。
ウィキペディアで文庫の出版社の一覧にあたりその数を数えると、一般向けが56社あり、それに男性向け、女性向け、コミックを合わせれば相当な数になる。
出版科学研究所のデータによれば、書籍全体の売り上げが逓減するなか、文庫の販売減が著しい。特に2014年以降、年5~6%の減少が続いており、2022年は前年比5.0%減と落ち込んだ。ちなみに、2022年の文庫の出版数は、789点である。ピークの2006年は1416点が出版されていた。文庫は価格の安さが“ウリ”だが、2022年の平均価格は711円で、2012年から86円上がった。2012年が2002年より37円しか上がっていないのと比べても、ここ10年の高騰ぶりが分かる。読者が手に取りやすい安価な本として親しまれてきた文庫は決して安いとはいえない価格帯になりつつある。とはいえ、単行本として刊行されたのち広く普及させるために、数年後に文庫として発売されるケースが多いが、文庫が手に取りやすい価格帯に設定されているのも事実である。
参考図書など
文庫本 雑学ノート/岡崎武/ダイヤモンド社/1998年
考える人 特集 文庫/2014年夏号
文庫解説ワンダーランド/斎藤美奈子/岩波新書 2017年
出版科学研究所/https://shuppankagaku.com
(令和6年6月号)