─内戦における医療と人肉嗜食(Cannibalism)も記載─
蒲原 宏
昭和11年生まれの著者は東北大学文学部国史学科出身のノンフィクション作家。明治戊辰戦争の会津藩の動向について『奥羽越列藩同盟』『会津落城』(中公新書)を初め10数冊の著作があり、何れも読み易く、面白い。
この作品は長岡市立図書館に平太の末裔遠藤進氏(横浜市住)が昭和62年に寄贈した『会津戊辰戦争従軍記』という後藤平太(1853〜1930)の従軍日記を基にしてまとめたもの。
すでに平成10年角川書店から『平太の戊辰戦争』として出版されたが、加筆訂正してKKベストセラーズからベスト新書302として出版された。
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現在の福島県大沼郡美里町(旧本郷村)に嘉永6年(1853)3月18日窯業を営む虎之助の長男として平太は生まれた。文久2年(1862)会津藩主松平容保が京都守護職に任ぜられると、本郷村の陶工にも藩から兵役の義務が課せられた。41歳の父虎之助は武術、洋式銃取扱い、兵法などの知識を身に付けた多感の人だったので、満15歳の平太と本郷の人ら36人と共に血書嘆願して会津藩の越後口の戦闘に参加した。越後水原奉行萱野右兵衛の番頭隊に編入され、明治元年(1868)3月13日津川に泊り、水原に駐屯、5月2日加茂町をへて、衝鋒隊と共に長岡、ついで小島谷、与板、地蔵堂の各地で戦うが、父ともはぐれた。戦線は後退するばかり。新発田藩の寝返りもあり、水原を放棄して会津へ退却した。父と再び出会うが、8月1日赤坂山(旧安田町)の戦闘で父は左腕に貫通銃創を受けた。負傷した父は石間、津川、野沢の野戦病院で応急の処置を受け、8月10日に若松に到着。藩校日新館に設けられた軍事病院に入院。8月12日幕府医学所頭取の洋方医松本良順(1832〜1907)と門人南部精一(1832〜1912)らによる上腕切断手術を受けた。籠城の混乱の中で苦心惨憺して近郊の親戚宅まで15歳の少年が父を運ぶ記事は読むのも辛い。結局8月24日、術後12日で父は発狂状態で死んだ。戦線から離脱し、村に居残り製陶業に専念し、地元産業の振興と旧藩士の顕彰に尽力した。村会議員をへて村長となり、陶芸家としても高い評価を受け、昭和5年(1930)7月8日77歳の生涯を終えた。
従軍日記の終に「ことに数千の生霊を犠牲に供し、市中その他の民家を灰燼に化し、億兆の財貨を烏有となさざりしならんに。かくのごとく悲痛凄惨の憂き目を見しは先見の明なく、無智短歳の致すところにして感慨無量の次第なり。噫々、天なるかな」と藩主を批判している。これは太平洋戦争における我国の元首にもあてはまる。
後藤平太(1853-1930)
20歳頃の肖像
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作者は徴兵された若者の見聞を骨格として、明治戊辰戦争における越後国での会津藩の動きを克明に検証しつつ、内戦の悲惨さを詳細にわたって説き来たり、説き去る。読む者をして惓きさせない。そして史眼の視点にぶれがない。
薩摩、長州を筆頭とする官軍兵の略奪、窃盗、強奪、強姦、放火、死体損壊、侮辱、それに人肉嗜食(Cannibalism)が平気で行なわれていたことが記載されている。人肉嗜食が兵糧の欠乏ではなく、敵に対する憎悪と侮蔑、それに士気鼓舞が目的であったという記載はすさまじい。
魚沼の小出島守備の隊長町野源之助は17歳の弟久吉を同行していた。久吉は槍の名手で18人を倒したが、官軍の一斉射撃で死んだ。兄は弟の遺体を取り戻そうとしたが果たせなかった。
久吉の首は切り取られ、7日間晒され、四肢は兵隊が争って肉をそぎ取って食いちぎり、骨、皮は四散された。(『町野久吉戦死の真相』小出町歴史資料集)
安田町(現・阿賀野市)で腕を切り落とされた会津兵を人夫が引き倒し、薩長兵が肉を切り取り、人夫に食わせ、残りは地面にふり撒いた。
「これは何といふものにやと尋ねければ、会津烏と言ふものなりと仰せありしとや」と言い、あぶらが強かったとまで書いてある(『佐藤長太郎乱語聞書集』安田町史に詳しい)。
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会津藩兵も退却する時に、民家に放火したりすることが多かったので、越後国内では次第に領民から疎まれるようになってゆくのが平太の日記から伝わってくる。会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。「いずれに用するや」と聞くと、「食するなり」と言って飲みこんだと、5月9日の日記に書いてある。
会津領旧上川村(現・阿賀町)の会津藩郷医江川元逸も徴集された時の従軍日記『旧記集録』のなかで、官軍方密偵(高田藩)が捕えられ斬首された時、肝臓を切り出して、酒の肴に醤油をつけて食べたことを書き残している(15年ほど前県医師会報に報告)。現在では信じられない様な凄惨な史実だ。両軍ともにCannibalismが行なわれていた。日光口でもあったと記録にある。この様な、内戦における憎悪の激しい狂気が記述されている。佐野常民の「博愛社」が生まれる西南戦争以前の日本の内戦の狂気はすさまじいものであった。
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内戦における農民、商人、人足、女郎のたくましさ、狡猾さ、名主、村役人らの行動など、この日記を通して作者は人間の利害、得失による動きを巧みに描出してくれていて面白い。
また戦争難民の昔も今も変らぬ悲惨な様子をこの日記の原文を引用してリアルに描写しているところは圧巻である。対外戦は言うに及ばず、内戦の悲惨さを越後国内の平太の足跡を実地踏査して仕上げた作品は、今回の増訂、加筆によって、河井継之助、小林虎三郎などを中心とした、いわゆる長岡物、戊辰戦争本を補う貴重な作品の一つといえる。要を得た明治戊辰戦争ものの白眉。診療の合間にいかが。
『平太の戊辰戦争─少年兵が見た会津藩の落日─』
著者 | 星 亮一 |
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出版社 | ベスト新書 |
価格 | 本体800円(税別) |
(平成23年2月号)