蒲原 宏
原著者のMary Dobson博士はイギリスの女性の中堅医学史研究者。オックスフォード大学を首席で卒業した俊秀。
現在はロンドン大学ウェルカムトラスト医史学研究センター、ケンブリッジ大学科学史・科学哲学研究員として熱帯医学・感染症の歴史・疫学史の研究を専攻している。
翻訳者小林力氏は東大薬学部卒の薬学博士。1956年生まれの中堅薬学史研究家。訳書に『新薬誕生−100万分の1に挑む科学者たち』(ダイヤモンド社)などがある。
本書もそうであるが、正確、流麗で解り易い文体は科学史家としての実力が並でないことが窺える。
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原書はDisease:The Extraordinary Stories Behind History’s Deadliest Killersで、2007年LondonのQuercus社の出版。従って引用文献も疫病史の動きも、2006年までのことが集録されており、最新の動向まで知ることができる。
それに全247ページが全てカラーで、絵で見る医学の歴史なので大変アトラクティブ。
臨床医、医学生、医療関係のスタッフにも親しめる。
理科系に興味のある高校生たちに読んでもらうと、将来医学を学ぼうとするモチベーションになることが確実な素晴らしい内容である。高校の図書室の棚に4、5冊並べたらどうかとか、子供に医業を継いでもらいたいと思ったら医家の茶の間にぽい11冊ころがしておいたらよいのにと考えた。
久しぶりに「この本は」と言える読みごたえのある医学の歴史書であった。
用いられている写真、絵は何れもオリジナルのものが多く、医学史研究に長年携わってきた評者ですら目にしないものが大部分で、「斬新だなー」と目を見瞠った。
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内容は〔1〕細菌感染症として、①ペスト ②ハンセン病 ③梅毒 ④発疹チフス ⑤コレラ ⑥腸チフス ⑦結核 ⑧産褥熱 ⑨嗜眠性脳炎の9種。
〔2〕寄生虫病として、①マラリア ②アフリカトリパノソーマ症 ③シャーガス病 ④リンパ系フィラリア症 ⑤住血吸虫症 ⑥鉤虫症 ⑦オンコセルカ症の7種。
〔3〕ウイルス疾患として、①天然痘 ②はしか(麻疹) ③黄熱病 ④デング熱 ⑤狂犬病 ⑥ポリオ ⑦インフルエンザ ⑧エボラ出血熱 ⑨エイズ ⑩SARSの10種。
〔4〕生活習慣病の項目には、①壊血病 ②クールー病とクロイツフェルト・ヤコブ病 ③がん ④心臓病の4種。
計30の病気について、社会的背景、学説の移り変わり、正統な治療が確立されるまでの矛盾、医学者同士の相剋、病者の悲惨さ等について、エピソード、小説などを引用しながら、小区分づつ、事象を縦横に切り口を入れて論述している。
歴史的な事実に対する視点がしっかりとしていて、医史学者として公平であり、イデオロギーに拘捉されることなく、記述がとても明快である。
さらに美しいカラーの挿絵が、医学にそれほど関心を持たない人達にもよく理解されるようにレイアウトされている。
各時代の医療漫画が処々に挿入されてあり、読み疲れたかなと思った時に、心地よい脳のマッサージをしてくれる。
これらのきめ細かさは、やはり原著者が女性医史学者ならではと思わせるし、医学史的な調査資料だけでなく絵画、美術史資料についてもしっかりした、また深い造詣の持ち主であることを窺わせるものがある。
読んでいて厭きさせない著作をまとめるのは容易なことではないとその苦心に同情した。
著者の勤務するロンドン大学ウェルカムトラスト医学史研究センターは、私も在英中に大変お世話になった研究施設であるが、製薬会社ウェルカムの財力によって世界中から膨大な資料が蒐集されている。
ここのコレクションと共に情報網を駆使した他にも膨大な参考資料が使われたことが参考資料の一覧表と文献でよく理解できる。
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たいていの医学史書では関連疾病年表が一括されているが、この著作では各疾患の一項目ごとに、あたかも脚注のように、古代から現代までを要領よく配列してある。
本文を読みながら時代による移り変わりを対比してゆけるので、系統的によく理解することができ、大変便利に構成されている。
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この著作では、生活習慣病としてあげられている疾患をのぞけば、他の大部分は、たとえ病名が古典的であっても、その病害には決して防疫も治療も油断することのできない魔物の正体が潜んでいることを再確認させてくれる。
そして、これらの魔性を持った病気は未解決の問題がまだまだ多くあることも、この著作の各所で正確に指摘している。
世界一の衛生的優等国の日本国に住んでいては理解し難いような病態も何とか理解できる。
交通が発達し、人間、物資、生物の移動が短時間にできるグローバル化によって、病魔は迅速に移動してくる。AIDS、SARS、エボラ出血熱、インフルエンザなど油断のできない病気を数多く抱えている。
何時、何処から経験したことのない魔性の病気が出現するかも知れぬのが地球という青い星なのであることを教えている。
未来の防疫・医療を策定するためにも、疾病史の歴史を十二分に身につける必要のあることが大切であると本書は示唆してくれている。
(日本歯科大学医の博物館・顧問)
『Disease ─人類を襲った30の病魔─』
著者 | Mary Dobson |
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訳 | 小林 力 |
出版社 | 医学書院刊 |
価格 | 3,990円(税共) |
(平成23年5月号)