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新潟市医師会報より

新潟市医師会

『白い航跡』  ─是非医学生にも読んでほしい─

大滝 一

まず『白い航跡』を読むに至った経緯について、ちょっと長めの前ふりをさせていただきます。退屈するほど長くはありませんのでご了承ください。この本は現新潟大学医学部長で耳鼻咽喉科教授の髙橋 姿先生からお借りしたものです。確か4年ほど前になるのではないかと思います。その後、ずーっと借りっぱなしですが、とても面白く私は3回読みましたし、家内も「面白かった、息子の受験が一段落したらもう一度じっくり読みたい」という感想でした。

以前から髙橋教授とは会合などの際に時々読書談議となり、藤沢周平や池波正太郎が面白いなどと話していました。そういった中で、私から『邂逅の森』をお貸しし、教授からはこの『白い航跡』をお借りしたという次第です。

その内容ですが、高木兼寛なる医師の生涯を克明に綴ったものです。戊辰戦争のくだりから入ります。出だしから作者の詳細な調査に基づいた人物、事物が事細かく書かれています。入りはやや重く読み進むのが少々きついと感じるかもしれません。ただ医療に関した内容で興味深く、すぐに引き込まれて面白さがどんどん加速し、気が付けばあっという間に読んでしまったという感じです。著者の吉村昭さんはこの本を上梓するにあたって、一体どれほどの調査をしたのでしょうか。そのすごさをひしひしと感じさせられます。髙橋教授の話では、これは吉村昭さんの著書全般に言えるとのことでした。

さて高木兼寛と聞いてピンとくる方はどれほどいるでしょうか。東京慈恵会医科大学(慈恵医大)の関係者であれば当然知っているでしょう。また脚気について詳しい先生であれば知っている方もいるでしょうが、知らない方のほうが圧倒的に多いと思います。私は研究会や手術実習などで慈恵医大を訪ねる機会もあったことから、同大の高木会館で懇親会に出席した覚えはあります。この高木会館とうい名称はこの高木兼寛の名を冠したものなのです。私はこの本を読んで初めてそのことを知りました。

彼は日本海軍の軍医で慈恵医大の創始者でもあります。そして脚気に関わった日本の医師の中でも押しも押されぬ第一人者です。日本の風土病と言われた脚気の病態、治療について、森林太郎(鷗外)らの東京大学医学部閥の陸軍医師達から激しい非難を浴び続けました。それでも信念を曲げず、原因究明と治療法の確立に大変な情熱を注ぎ、精神に異常きたすほどまでに努力をした人です。多くの国民が脚気で亡くなっていた日本から、その脚気なる病気を駆逐した医師と言っても過言ではないと思います。

恥ずかしながら脚気という病気について病名は知っていますがどういう病気か? 実際に患者さんを診たことがあるか? といわれると、no としか答えられません。現在の日本では脚気に罹る人は極めて少ないと思いますし、当然ながら脚気の患者さんを診療する機会もほとんどないと思います。

昔は国民病と言われていたほどですから、本当にたくさんの人が脚気に罹り、原因も治療もわからないまま亡くなった方が多いようです。古くは江戸時代の3代目将軍徳川家光や13代の家定、14代の家茂もこの病気に罹り、それが誘因で死亡しています。また明治時代には天皇、皇后をはじめ皇室の方々も脚気にかかり療養されました。明治天皇は不幸にも自身の内親王が脚気で亡くなったことと、国民の多くが罹患していることから、脚気には大きな関心と憂いを持っていました。高木兼寛はその明治天皇に請われ謁見を許されたうえに、脚気についての持論を上奏する機会を持つことができた稀有な医師です。

明治時代において、まして大変だったのが高木の属する海軍と森林太郎の属する陸軍でした。明治10年は全国的にも脚気患者が極めて多い年で、その年の海軍は総人員1,552名でしたが、年間延6,344名の患者がでました。つまり一人平均、年4回も脚気に罹ったことになるという由々しき状態でした。翌年の明治11年には海軍の総兵員4,528名のうち1,485名、33%が脚気に罹り、死者も32名で、海軍が脚気のために滅亡するとまで言われました。

その後海軍では、後述する高木の改良した食事内容を受け入れ、明治17年には脚気患者はほとんどなしという画期的な変革を遂げたのです。

しかし、森らが属する東大閥の陸軍では高木が唱える食事法を受け入れることなく、明治27年の日清戦争では、陸軍全体で戦死者・戦傷死者が1,270名であったのに対し、脚気でなんと3,944名もの死者が出たのです。さらに10年後の日露戦争では陸軍の脚気による死者は27,800名にも上りました。さすがに陸軍内部からも森らを批判し、一部では高木の提唱する食事法を取り入れるようになりました。

脚気は白米の偏食によるという「脚気白米説」を唱える高木に対して、森らは「細菌説」を唱え一貫して批判的な態度を取りました。その根底には出身大学、陸海軍の別、留学先の違いなどがあったのです。「細菌説」を唱える森らの陸軍医官上層部の多くは東京大学出身でした。そしてその多くが当時世界の医学を牽引していたドイツに留学しており、高木ら海軍のイギリス留学組を軽視していたのです。自尊心の高い森が、天皇に脚気についてじかに上奏した高木に、強い嫉妬心を抱いた。

森林太郎(鷗外)について調べてみると、頑として高木の説を受け入れない権威意識の高い森を「藪医者森鷗外」と紹介している文献もみられます。高名な文学者という一面も持ちながら、一方では上記のような面も持ち合わせておりさらに興味をそそられます。

そして日本医学の方向性が決まったのも、まさにこの頃です。イギリスやオランダの医学ではなく、森らが主張する「ドイツ医学を範とする」方向に日本の医学、医療の舵が切られたのです。これが善きにつけ悪きにつけ現在に繋がっています。

さて遅くなりましたが、ここで高木が脚気に対し、どう対処したかについて触れてみたいと思います。彼は前述の悲惨な状況を憂い、長期の航海に臨む海軍兵の食事内容を徹底的に追跡研究しました。下部士官には入隊前は雑穀しか食べられない貧しい者が多く、彼らは海軍に入り白米をたらふく食べられることに大きな喜びを感じていました。そして副食用にと与えられた費用は貯蓄とし、副食はほとんど食べず、本当に白米だけという食事になっていたのです。当然のごとくビタミン不足が起こります。白米だけを腹いっぱい食べれば食べるほど脚気患者が増えることになったのです。

彼は下部士官に脚気患者が多く、そのほとんどが白米のみの食事であることに眼を付けました。イギリス留学で学んだ栄養学を基にその食事を洋風にし、ほとんど摂取されていない肉類や麦飯などを取り入れ、苦労に苦労の末、ついに国民病である脚気を見事に駆逐したのです。

そこには、国策や国家予算まで影響を与えるほどの政治的折衝もありましたし、難題もそれこそ山ほどありましたが、持ち前の不屈の精神で乗り切りました。

その高木は家庭的には決して幸福とは言えなかった人です。両親の死に目にも会えず、4男2女の子供に恵まれたものの、長男以外の5人の子供たちに早世され、その都度深い悲しみに打ちひしがれました。

俊秀、勤勉、努力、情熱、そして決断と忍耐。宮崎の田舎の大工の息子から大きく成長して、日本の近代医療の礎を築いた高木兼寛はとても魅力的な医師であり人間です。

以上がこの本の大筋です。ただしそれ以外にも医学に関する多面的な事柄がふんだんに盛り込まれています。少しオーバーですが、この本は「日本近代医学誌の黎明編」ではないかと私は思っています。日本の医学生、もちろん医師にも是非是非読んでもらいたい書物です。医学生の一般教養時代の必読書にしてもいいくらいに価値のある一冊と思います。

この春から医学の道を歩むことになった息子にも、入学祝いにこの本を贈りました。大学が始まるまでには読むと言っていましたが、部活がどうのこうの、入りが難しいなどと、どうもまだ手を付けていないようです。もちろん文庫本です。お借りした単行本は髙橋教授にいつかお返しします。髙橋教授には、このような素晴らしい書物に出会う機会を与えていただき本当に感謝しております。ありがとうございました。

会員のみなさんご自身で読まれてもいいし、医学を目指そうとする御子息がおられましたら、是非お勧めの一冊です。私はこの本を読むと「よーし、少し年はとったが、俺もこれからまだまだ頑張るぞ!」とモチベーションがぐんと高まります。

<追加>

高木兼寛の存命中は東大を中心とする日本医学会で「脚気白米説」は容認されませんでした。しかしその説は早くから世界的に注目されていて、彼はアメリカ、ヨーロッパの各国から招待を受け、数多くの講演をしました。行く先々で大好評を博し、多くの大学から名誉教授などの称号を授かっています。

国内で高木の説が認められたのは、大正14年4月の臨時脚気調査会の最終報告会でした。

最終的には高木の完勝です。しかし、この時は高木兼寛が大正9年に72歳で没してすでに5年、森林太郎が没して3年が経っていました。

南極大陸に「高木の岬」という岬があるそうです。さて、なぜ日本人で唯一「高木」の名が南極の地につけられたのでしょうか。答えはどうぞご自身でお確かめください。

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新装版『白い航跡』(上、下)

著者 吉村 昭
出版社 講談社文庫
価格 上下巻ともに581円(税別)
  • < 『ロビン・フッドの冒険』
  • 『祖父たちの零戦』 >
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