黒田 兼
見開きで40×60cmほどの大ぶりの写真集。こちらに向かって迫り来る、千手観音の無数の手。奈良唐招提寺金堂の千手観音を写真家土門拳が撮影したものです。千手観音は多くの場合1本の手を25本分の手とみなし、手の本数を省略しますが、この仏像は実際に約千本の手をもつ数少ない像です。お顔も足も体も写っておらず、いったいどんなお姿をした仏さまなのか、この写真から知ることはできません。そして圧倒的な数の手は、私には不気味にすら思えます。しかし千手観音という仏様の本質は、人々を救おうと、無数に差しのべられた手に象徴される慈悲深さにあるのだ、と思い知らされる写真です。
医者になって2年目、ようやくほどほどに給料をもらえるようになったある日のこと、紀伊国屋書店入口の特設コーナーで足を止めました。土門拳の『古寺巡礼』全5冊。すばらしい装丁の重厚な写真集。36万円という価格にうろたえましたが、以前からうわさに聞いていた本。仏像好きでもある私はすぐさま購入を決めました。
土門拳は1909年生まれで1990年に亡くなった写真家です。「絶対非演出の絶対スナップ」というリアリズム写真を提唱し、報道写真家として広島の被爆者を被写体とした『ヒロシマ』などを残しています。その一方、美術写真家としてこの『古寺巡礼』を残しています。3度の脳卒中発作を起こしていますが、1度目は1959年50歳のとき。右半身麻痺となったものの、この写真集の撮影をスタートします。1963年第一集が完成し、以後第二集が1965年、第三集が1968年、その直後2度目の脳卒中発作を起こし半年間意識不明の後、回復したものの車椅子の生活となりました。第四集が1971年、そして第五集が1975年にそれぞれ限定2,000部で出版されました。私が購入したのはその後発行された国際版ですが、原色版印刷の職人が絶えたのを理由に、1995年版を最後に絶版となっています。
それぞれは前半はカラー写真、後半はモノクロ写真、その後に本人による解説、およびエッセーがつづられています。土門という人は写真に対して非常に厳しい人でした。撮影前には被写体について調べつくし、解説は美術書にひけをとらない詳細なものです。またエッセーもすばらしいものです。
「仏像は走ってる。走って逃げているんだから、こっちはもう必死に追いかけてつかまえなければいけない。そのチャンスは一つしかない。仏像は座っているものだなんてのんきにかまえているようじゃ、とてもとらえられない。相手が逃げ出しそうなときに、ギュッと切り込むんだ」(『紀信快談』)こんな言葉を残した写真家の、まさに命をかけた渾身の作品です。
現在では編集された文庫や単行本などが出版されていますが、サイズは小さいですし、写真の色合いが異なります。少しでも興味をもたれた方は、ぜひ図書館で本書を手に取ってみてください。
『古寺巡礼』
著者 | 土門 拳 |
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出版社 | 美術出版社 |
(平成23年8月号)