小林 晋一
私はこれまで、著者の映画を見たことはなく、著書も読んだことはなかった。ただ、高名な映画監督、シナリオライター、乙羽信子の夫であるくらいのことは知っていた。
明治45年の生まれで、今年2011年99歳であるが、映画『一枚のハガキ』を最後の監督作品として世に出した。NHKでその制作の様子や日常の生活がドキュメンタリーで放映された(『98歳・新藤兼人の遺言』)。彼のバイタリティー溢れる創作活動に興味をそそられ、この本を手にした。2000年88歳の著書である。
まずその冒頭に自身の日常が述べられている。朝6時に起きて、7時に食事。8時に散歩に出る。約40分、散歩から帰るとシャワーをあび、その後1〜2時間読書。それから原稿を書く。午後はときどき外出。映画の監督をするときは、準備に2か月、撮影に2か月、仕上げに2か月かかる。夜、お手伝いさんが7時に帰る。ベッドに入るのが10時半か11時、11時とすれば4時間という時間がある。これを自由な時間と呼んでいるが孤独が忍び寄ってくる時間でもある。
氏の青年期は太平洋戦争の真っただ中である。徴兵検査で丙種合格であった。1942年の春から43年の冬までの1年半、溝口健二監督に師事してシナリオの修行するために京都に住むことになる。才能試験で書いたシナリオで大きな挫折をあじわう。発奮して、『近代劇全集』43巻を1年半かけて読破することになる。その間、支えてくれた妻を結核で失い、戦争の激化にともない丙種合格の氏も招集される。死を覚悟するが、100人中の6人の内地勤務に残り、生きて終戦をむかえることができた。
『老人読書日記』には、ドフトエフスキー、チェーホフ、永井荷風、夏目漱石、正岡子規といった文豪に加えて、テネシー・ウイリアムズ『回想録』(『欲望という名の電車』の脚本家。同性愛者。40年代50年代に活躍するも、その後アルコールやドラッグなどで身を持ち崩した)、マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』(殺人犯である兄の生涯を追った書である。兄の裁判は死刑制度の存廃をめぐって全米注目の的になった)、澤地久枝『わたしが生きた「昭和」』(終戦時満州に置き去りにされた一般居留民の問題。澤地は16歳のとき満州で終戦を迎え、その悲惨な歴史の生き証人となった)の3つのノンフィクション作品が取り上げられている。
著者は「シナリオ作りの要諦は登場人物の人間を描くことであって、それにはひとりひとりの登場人物に劇作家本人が乗りうつっていなければならない。そうすれば物語は勝手に動き出す。」と語っている。
本書でも、さまざまな生きた人間像、「私とは何か」が描かれている。それを著者の文章でたどってみる。
1 ドフトエフスキー
20代の前半で読んだロシア文学の中で『罪と罰』に大きな衝撃を受ける。それはラスコーリニコフ(主人公)に出会ったからである。彼の悩みはわたしども若者の悩みであった。わたしは老婆の頭上に斧をふり下ろす勇気はないが、その心はあった。貧しさも同じように貧しかった。
ラスコーリニコフは、金貸しの老婆を社会の屑だと思う。屑だから、老婆を殺して金を奪い、優秀な学生である自分が学費にあてて学問するのは、社会のため、国のためになると正当性を認めて斧をふり下ろす。しかし、彼はソーニアに出会う。その魂のあまりの清らかさに、老婆が一個の人間であることを認め、罪に服し、シベリアへ流刑される。
ドフトエフスキー自身が流刑されなかったらこの小説は生まれなかったのではあるまいか。彼はここでは豚あつかいされ、凄まじい人間というか、生き物というか、礼節もプライドも放り捨てた人間を見た。見ると同時に自分もそれになった。人間とは何だ、私とは何だ、ということを見せつけられた。
2 永井荷風
戦後帰京した著者が最初に手にした本は、永井荷風の『罹災目録』であった。東京空襲はどのようであったか、を知りたいためであった。『墨東綺譚』との出会いは24歳のときであったが、その時はあまり感銘をうけなかった。70もだいぶ過ぎたころ、『断腸亭日乗』を読んで、荷風のすごさに脱帽する。これは42年間にわたる荷風の日記であるが、大河小説の趣があった。その徹底した自己のみを貫く生き方に感動した。荷風めぐりもやった。荷風に共鳴した著者は79歳の時に『墨東綺譚』を撮ることになる。
3 漱石と子規
夏目漱石は、ロンドン留学中に、学生時代から悩んでいたわたしとは何かをつかむことになる。それは自己本位ということ。何ごとも自分にはじまり、自分に終わるということだ。自分を救う道は自分以外にない。漱石は自分を認めると同時に、他人の自己を認めたいという。
漱石の『こころ』を初めて読んだとき、ひどい衝撃をうけた。わたしは、漱石はここで「裏切り」を描いたと思う。裏切りの角度から人間を描いた。それは文芸というよりは哲学の領域である。漱石は、人間の、もっとも平凡な、普遍的な問題を掴んだのだ。
正岡子規は29歳で死の床に臥すようになる。そして35年にあと1カ月というところで死んだ。その間カリエスの痛みに絶叫しながら、生涯でもっとも充実した創作活動を行った。「日本新聞」の陸羯南の好意で、病床から新聞に俳句評や短歌評を書き、随筆も連載した。『仰臥漫録』を書き、死の年の5月から『病床六尺』を連載し、死の2日前まで、127回書いた。(病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事もできない)。彼は、六尺の病床に縛られたのではなかった。その中に自分を発見したのだ。
4 澤地久枝の『わたしが生きた「昭和」』
澤地久枝は自身のスタンスを次にように語っている「わたしの生きた日々にかさねて昭和の時代を考えてみたいと思う。わたしが生きた体験を通して把握できること、それがたとえ歴史の断片であっても、わたしには忘れられず、動かすことのできないことを書いてみたい」。
軍および政府関係の日本人家族だけが、なぜ特別編成の列車で新京を離れられたのか。決定権をもち、いち早く情報をとらえ得た人たち、その家族の敗戦は、一般の在満居留民とは異なった。身勝手な軍人たちの判断の詳細とその責任は、現在にいたるまであきらかにされていない。軍人たちにより、明白な「棄民」がおこなわれた。軍中央部も政府も、承知していたはずである。
この書では、さまざまな「私とは何か」が述べられ、著者自身の「わたしとは」も随所に語られている。著者の生涯を通しての創作活動の目的やその核になっているものは、私とは、人間とは何か?の追求であり、もう一つは太平洋戦争で逝った人たちへの鎮魂の祈りであろう。この書でも最後に、「私」とは「何」かにしぼって、わたしの読書の「跡」をたどってみたが、戦争から始り、戦争で終わってしまった。と結んでいる。
『老人読書日記』
著者 | 新藤 兼人 |
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出版社 | 岩波新書(新赤版)706 岩波書店 |
出版年月 | 2000年12月20日 発行 |
(平成23年12月号)