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新潟市医師会報より

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『山本五十六』

大滝 一

山本五十六は長岡市出身ですので、詳しい先生方も多いと思います。恥ずかしながら私はまったくと言っていいほどの素人です。真珠湾攻撃を発案した海軍軍人であること、他には「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」という有名な格言を残した人、ということくらいしか知りませんでした。

この本を読んで、まずちょっと驚いたのは五十六の命名についてです。お父さんが56歳の時に3人目の奥さんとの間に誕生した子供で、父が56歳だったことからこの名前がつきました。また、もともと五十六の姓は高野でしたが、長岡の名家であった山本家に相続人がおらず、その名を残すために、海軍で名を馳せていた彼に山本家から名称相続の懇願があり、山本姓になったとのことです。

この12月23日封切の映画「連合艦隊司令長官 山本五十六 ─太平洋戦争70年目の真実─」が今ちょっとした話題になっており、書店にも彼に関連する本が多数並んでいます。以前から山本五十六を一度は勉強しようと思っていましたので、この本を手にとってみました。さわりを読むと日本歴史学会編集の人物叢書というだけあり、感情をあまり挟まず、人物、史実を淡々と記述しているところが私には気に入りました。

その五十六は、長岡での学生時代と海軍兵学校時代を通して成績は極めて優秀でしたが、けっして自ら進んで前に出るような性格ではなかったようです。ただし多くは語らずとも、心の底に持った信念は固く、難解な場面での彼の発言の影響力は大きく、若いころから筋の通った人間だったようです。人望も厚く五十六の格言集が出ているのも納得ができます。

そういう五十六ですので病気や負傷で長い休養をとっても、海軍の中で昇進していったのは当然だったのかもしれません。そして最後は日露戦争でバルチック艦隊を撃破した英雄、連合艦隊長官東郷平八郎と並ぶ地位まで上り詰めました。

意外だったのは、彼が若い頃アメリカに留学しており、その際に油田開発や石油を原動力とするモータリゼーションを目のあたりにし、さらに飛行機開発が進んでいることに着目した点です。後に日本とアメリカは戦争に至りますが、五十六は本来かなりの親米家でした。

これからの戦争の主役は戦艦ではなく飛行機と確信して帰国した彼は、希望職務をそれまで専門の海軍砲術部ではなく、組織としてまだまだ貧弱だった海軍航空隊としました。そして航空隊の司令官として、戦闘機において欧米からの輸入に頼らない、国内で大量生産できる組織と体制を努力の末に作り上げたのです。日本航空史の黎明に関わり、連合艦隊の司令長官とばかりと思っていたら、なんと戦闘機の分野でも大活躍していたのには驚きです。

この本では五十六を中心に、大正3年に始まった第一次世界大戦以降、日本、アメリカ、ヨーロッパの諸国間で起こった軍縮問題、それから派生し、最終的に第二次世界大戦に至らざるを得なかった経緯も詳しく記述されています。興味のある方なら、この面でもかなり面白く読むことができると思います。

さて、航空畑に転身し昭和10年には海軍航空本部長になった五十六ですが、海軍連合艦隊に彼以上の人材がいなかったこともあり、再び連合艦隊に呼び戻され、昭和14年に司令長官となります。その後に日本はアメリカとの太平洋戦争へと突入していったのです。

有名な電文「新高山登レ 一二〇八」をもって真珠湾攻撃が昭和16年12月8日の未明に決行されました。

この作戦を考案提唱したのは、戦時における最高統帥機関の大本営から意見を聞かれた五十六でした。アメリカの国力を熟知していた彼は「奇襲攻撃では第二波攻撃も加えアメリカ艦隊が立ち直ることができないほど徹底的に攻撃する。そうしなければ大国であるアメリカ軍が次第に力を持ち直し、長期戦になった場合、日本軍は太刀打ちできなくなる。一気呵成にやるしか勝つ道はない」と提言し、その考えのもとに決行されたのです。

しかし実戦の指揮官はある程度の打撃を加えた時点でもう十分と認識し、これも有名な「トラトラトラ」の奇襲作戦成功の旨を大本営に打電したのです。第二波攻撃もなかった真珠湾攻撃は、アメリカ海軍にとって壊滅的打撃には至っていなかったのです。

私はここが極めて重要なポイントと思います。

作戦提唱者の五十六にとっては、詰めの甘い不満足な結果ではなかったかと思います。開戦からしばらくは優位に進めていた戦いも、その後長期となり、ミッドウェー海戦の大敗などから次第に日本軍が不利になっていきました。最初に第二波攻撃をしていたらどうなっていたかとどうしても思ってしまいます。

前述のごとく第二次大戦時の戦闘の主体は航空戦で、東郷平八郎が司令長官だった日露戦争時の艦隊戦とは全く違うものとなっていました。しかし日本海軍はまだまだ艦隊戦が主と考えていた節があり、戦術の研究と努力を怠ったのです。日本の軍部は日清、日露、第一次世界大戦での勝利で気付かないうちにすっかり慢心してしまっていたようです。戦いにおいて反省、研究、努力を少しでも怠ると国家の趨勢にかかわるという強力な教訓です。

大本営は五十六に意見を聞いたにも拘わらず、けっしてその意見を重視してはおらず、五十六の進言した通りの作戦を展開したわけではありませんでした。もし五十六の意見を重用し、真珠湾から始まる攻撃を五十六の提言に従っていたら、結果は違っていたかもしれません。しかし長い目で見てそれが日本にとってよかったどうかはわかりませんが…。

五十六から見れば、自分の本心とは違った方向に戦争が向い、正直なところ決して満足してはいなかったと思います。しかし世界大戦は五十六一人の考えでどうこうなるものでもありません。戦争と自分について、本望とは異なる現実に彼はきっと歯ぎしりしていたに違いありません。

そのような中で連合艦隊長官の山本五十六は、艦上ではなくソロモン諸島上空の戦闘機の中で、敵機の凶弾に頭部と胸部を打ち抜かれ散って逝ったのです。

「山本五十六は太平洋戦争における英雄なのか?」

「山本五十六がもし生きていたとしたら戦犯ものだったのか?」

「山本五十六は最も戦争をしたくなかった軍人なのか?」

今年で開戦70年とのことですが、まだまだ私にはわからないことだらけです。

映画も是非見ようと思います。本誌が出る頃には公開されているはずです。

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人物叢書─日本歴史学会編集─
『山本五十六』

著者 田中 宏巳
出版社 吉川弘文館
定価 2,205円(税込)

(平成23年12月号)

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