風間 隆
年をとったせいか少しだけ宗教に関心を持つようになった。とくに信心深いわけではないし、当面は宗教に入れ込むつもりはない。宗教的なバックグランドがあれば、苦難にあったときでさえ、人は心の平安を保ち、それに立ち向かう気力を保つことができるのであろう。私が興味を持っているのは、そのような宗教の個人的側面ではない。宗教の役割はなにか。なぜ多くのひとが神を信じるのか。ほとんどの現代宗教は平和な世界を望んでいると推測するが、宗教間で争いが絶えないのはなぜなのか。そんなことを漠然と考えていたところに、ふとしたことから目に入ってきたのがこの本である。
宗教を生み出し、それを信じる素地は道徳的本能として人間の遺伝子に組み込まれているらしい。それはチンパンジーなどの霊長類にもあり、人間ではさらに進化して原始宗教に発展したというのだ。狩猟採取時代の小集団間の生存競争は、敗れた集団は皆殺しにされ完全に姿を消すという熾烈なものであった。小集団が宗教的になることにより、集団内の規律が保たれ、外敵に対しては結束して当たることができる。さらに集団のためには命を捨てることさえ可能な人間が現れるため、熾烈な生存競争下では非常に有利であったというのである。つまり神を信じる能力は集団として生き残るために不可欠で、宗教行動の遺伝的な背景を持たない集団は自然淘汰により排除された。その結果、そのような遺伝子を持った集団だけが生き残ったというのである。現代人は絶え間ない戦いの勝者の子孫ということだ。ということは、今でも戦争や集団間の争いが絶えることがないのは、現代人に好戦的な遺伝子も存在するからなのだろうか。
宗教は元々それを信じる集団が生き残るための手段であったことを考えると、宗教は争いに対し抑制的に作用するものではなく、むしろ潜在的にそれを助長するものなのだろう。もしそうならば悲しいことである。実際に、宗教は兵士に戦闘への心構えをさせ、戦争のスローガンとして頻繁に引き合いに出されてきた歴史がある。しかし、過去の73の大きな戦争のうち、宗教の役割が非常に大きかったのは3つだけで、60%の戦争で宗教は何の役割もしていないという研究がある。紛争や戦争のほとんどの場合、戦いを遂行し勝ち抜くために宗教が利用されたということなのだ。地域紛争や国同士の戦争において宗教が絡んでいるようにみえても、その背景にある他の原因にも目を向ける必要がある。例えばユダヤ人とパレスチナ人の紛争では宗教的な対立もあるが、根底にあるのは土地問題であるように。別のおもしろい例として、キリスト教圏とイスラム教圏の争いである1092年から1291年の十字軍がある。遠征が始まった当時、確固たる地位を築いた教会組織にとっては、むしろ過激な多数の熱狂的な信者の存在が脅威となりうるとして問題になっていた。第一回十字軍では、彼らの不満の矛先が教会に向かないようにするために、生還の望みの少ないエルサレムの地へ彼らを追いやってしまう目的もあったというのは興味深い話である。
宗教はある部分では遺伝的な影響を受けるが、他の部分では文化的な影響を受ける。このため、宗教の教義には柔軟性があり、それが生き延びるのに役立った。農耕が始まり定住生活をするようになり、続いて集団が大きくなり国家を形成するようになった。社会や生活の形態が変わるに連れて、宗教も原始宗教から現代宗教へと大きく変化を遂げた。為政者たちが国家の結束を高めるために宗教を利用するようになった過程や、宗教が信者を獲得し拡大するために、各地方の農業習慣や土着の宗教的な要素を吸収して発展してきた過程が述べられている。ユダヤ教、キリスト教の形成過程が詳しく述べられれているが、とくに聖書が作られる過程はおもしろい。ユダヤ教の聖書は様々な資料、バビロニアの伝説や歴史書、民間伝承を巧みに編纂してできたものであるというのである。例えばノアの物語は2つのメソポタミアの神話を組み合わせたものである。さらに、モーゼという人物、出エジプトやカナン征服などの偉業はその存在を示す歴史学的、考古学的証拠はないという。実はイスラエル人は初めからカナンに住んでいたのではないかというのである。聖典をこのように都合よく編纂することは、強力な国家に挟まれた小国が政治的、宗教的なアイデンティティを形成し、国家として結束するためには必要であったというのである。高校時代にみた映画「十戒」。海が割れて、エジプトを脱出したユダヤのひとびとがそこを通って追手を逃れた場面は印象的だった。こんなことは起こるはずがないが、何か現実的な方法で逃げたという事実を象徴的に物語にしたのだろうと思っていた。なぜかとても感動した私は、話した内容は覚えていないがいっしょに映画を見に行った友人に熱く語っていたことを思い出す。モーゼも出エジプトもなかったとしたら、少し寂しい気がする。
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』
訳 | ニコラス・ウェイド |
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依田卓巳 | |
出版社 | NTT出版 |
定価 | 2,800円+税 |
(平成24年7月号)