横山 芳郎
私の名刺の肩書きには、江戸文物研究家と夢職内科医と併記されています。1956年に医師免許を受けておりますので、間違いなく医師なのですが、夢職とは何かといいますと、本当はもう無職で、江戸学が本職のようなものなのです。ムショクを夢職と書いて江戸っ子的に粋(いき)がっているのです。江戸学のなかでも、殿様、武士の世界の固い話は全くダメで、町人の遊びの研究をやっています。一番の得意領域は、男の遊び場の吉原遊郭の話で、頼まれてこの講演をしますと、大方から「面白かった」と好評を受けます。
江戸時代といいますと、大抵の方には「元禄時代」が一番有名で、花見踊りが華やかで、忠臣蔵の仇討苦労話で江戸中が沸いた話などが話題になりますが、これは江戸時代のごく初期で、庶民の生活がようやく安定し、関西に占有されていた文化、文芸、日常習慣が、「文運東斬」といって少しずつ江戸に流れ込んできたいい時代でした。しかし、文芸が円熟に至った江戸の中期、後期(文化、文政時代)の人間臭い江戸の爛熟した面白さは例えようがありません。
本書は江戸文化を表徴する、戯作(げさく)、狂歌の三大文人、平秩東作(へずつとうさく)、大田南畝(おおたなんぽ)、山東京伝(さんとうきょうでん)の生涯や作品をそれぞれ別々に、小説風に記述しており、古典文学全集の無味乾燥な記述よりも、楽しく簡便に、爛熟した江戸後期の雰囲気を味わうことができます。
滑稽諧謔を交えた歌は、天のうずめのみことの昔よりありましたが、能楽狂言のおかしみが室町時代に市井に広がり、狂歌として正統な和歌にたいして意識されたのは鎌倉時代といわれます。江戸の狂歌熱は天明期(1761年~)に頂点に達し、高い教養を背景としてユーモラスな機知と品位をもって詩作する芸術となりました。
平秩東作は天明狂歌師の最古参で一方の頭でしたが、代表作として
狂歌 富貴とはこれを菜漬けに米のめし 酒もことたる小樽ひと樽
というのがあります。
この年代は、将軍の側用人が田沼意次(たぬまおきつぐ)で、各種事業を開発して幕府の資産を増やし、景気を増進したのですが、有名な賄賂収益家で、ついに松平定信の寛政の改革によって没落しました。改革を揶揄(やゆ)した、詠み人しらずの狂歌があります。
世の中に 蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねられず
50年ほど前までの史観では田沼政治は散々でしたが、近年はその積極政策によって、庶民の消費生活は豊かになり、江戸の文芸、産業の復興が興り、その積極政策を了とする意見も多く聞かれます。大変な時代でしたが、人々は狂歌をひねり、遊郭に遊んだりして、生活を楽しんでいた風がみられます。吉原や、芝居町には一晩千両の金子が落ちたといわれています。封建制のために庶民は苦しんでいたという評価は一面的なものと思われます。
本書で平秩東作は、溢れる才気をその時代の蝦夷地方の開発にかけ、実際に北海道松前の探索隊に加わり、その方の成果を幕府方に報告しましたが、寛政の改革によって人生の後半の意欲を失ってゆく状態が本書に記述されています。
大田南畝は、四方赤良(よものあから)ともいう名前の天明期狂歌師の旗頭でしたが、酒落本(遊里の遊び本)の作家でもあり、遊蕩をすすめ、風俗を害したという風評で、寛政の改革で、手鎖(手ぐさり:両手首に鎖を巻かれて手の自由を奪われている)50日の刑も受けています。狂歌師では生活できず、幕臣の下級武士の身分を続けていました。蜀山人(しょくさんじん)と名乗って黄表紙(成人むけ絵本)、洒落本、滑稽本(十返舎一九による浮世道中膝栗毛が代表)などの江戸文芸全般に活躍していました。
狂歌 吉原の夜見せをはるの夕ぐれは 入相(いりあい)の鐘に花やさくらん
当時、原稿料というものはなく、版元の蔦屋重三郎(狂名は蔦唐丸つたのからまる)からの遊郭や酒食の接待を受けるだけでありました。
山東京伝も多彩の文人でした。生涯を通じて、おびただしい戯作本を発刊しました。中でもベストセラーは黄表紙の「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」で、京伝の文、画の才がにじみ出ています。艶二郎という金持ちの団子鼻の道楽むすこが浮気を企てるのですが、いろいろ企画してもみんな失敗するという話です。
このころは物語がみな長編になって、薄い読み本を数冊集めた合巻本が主流になって、内容も豊富な本となりました。文化12年(1815年)頃は、京伝は読本の執筆をやめて風俗の考証ものに精をだし、「骨董集」を出版しました。しかし翌年に至って、脚気衝心のために他界しました。回向院の葬儀には千人を超える会葬者がありましたが、大田南畝は朋友の御霊に次の献句をいたしました。
狂歌 山東の嵐の後の破れ傘 身は骨董の骨とこそなれ
この表現が狂歌の神髄でしょう。本書の題目となった言葉です。
江戸の中、後期の文芸復興と同時代の他の文芸者との交流、世代の嵐に揉まれた三文人の生きざまの物語です。
付図 山東京伝著、北尾政演(きたおまさのぶ:同一人)による艶本枕言葉
男は『艶本枕言葉』の板元・蔦屋重三郎である。狂歌「しめて寝る、二人が中の二重帯、とけてからまる夜半のむつごと」の「からまる」は、重三郎の狂名「蔦の唐丸」にかけたもの。機嫌を損ねた花魁を見て「よくふくれるやつの、こふいふ所を、うた丸(歌麿)にかゝせてへ」と言っている。(引用:別冊太陽 春画 平凡社刊より)
『嵐の後の破れ傘』激動の江戸を生きた三文人
著者 | 高任 和夫 |
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出版社 | 光文社 |
価格 | 590円+税 |
(平成24年12月号)